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連隊館震災ボランティア第 II 部 ボランティアを体験して
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震災ボランティア:第 II 部 ボランティアを体験して

自然体のボランティア

A.R.(3/7~3/12)

 神戸では、ボランティアの意味について、姿勢について、学んだことが多い。

 交通費を寄付する

 神戸に来ることを悩んでいたのは、私だけではなかった。ボランティアに来ている人たちは、1度はこの葛藤を経験している人も多い。何の特技もない私が来て良かったのか。お荷物になるだけではないか。自分が何かの役に立てるのだろうか。自己満足ではないのか。そして、誰だか忘れたが、こんなことをつぶやく人がいた。

「私がここにいるのは、ほんの短い間。資格を持っているわけではないから、大したことはできない。東京~大阪の新幹線代2万5千円を義援金として寄付した方が良かったのではないかって思う時もある。」

 皆、悩みながらもここに来て働いている。でも、一旦働きだすと「来なければ良かった」と思う人は減るような気がする。確かに、2万5千円は小さい額ではない。寄付できる人はすればいい。でも、私が思うには、どんなにお金を積んでも買えない「人の優しさ」を届けることは決して無駄ではない。お年寄りの手を握って話を聞いてあげるだけでも、悩みながら何もしないよりずっといい。

 食卓に飾る花のような存在

 最初の頃、ボランティアの存在に疑問を持って動いていた私に、すきま風を与えてくれたのは若杉さんだった。若杉さんは、私と同じ一橋大学の4年生。私より数日前に避難所入りしている。普段からボランティア活動として子供たちに接しているせいか、わざとらしいほど、元気で、ハキハキしていて、ニコニコしていて、そして即席の関西弁を操ろうとする。そんな彼女の姿を見て、私は「偽善だ」とある種の反感を感じていた。ところが、一緒に配給の仕事をしていた時のこと。彼女と馴染みのおばさんが、挨拶した後こう言った。

「あなたのね、はつらつとした応対を見ていると、元気が出るの。頑張ろうって思うのよ。どうもありがとう。」

 目の覚める一言だった。何ができるのか、何の役に立つのか、そんなことを偉そうに頭の中で思い巡らせていても何も始まらない。そもそも、何をもって役に立つか立たないかを決めるのだろう。役立たずなんていない。ただ気持ち良く自分の体を使って働くことだ。良い空気を振りまくこと。笑顔でパンを配ってもらえたら、その方が良いじゃないか。つまりは食卓に飾る花のような存在で良いのだ。そんなことが、頭の中で、何かがパチン、と弾けたように理解できた。何だか溜飲が下がった(*)ようであった。

 その後、私は「心が和むような存在」になろうと決めた。挨拶、笑顔、思いやり。配給のパンを、取りにきた人の袋に投げ入れるのではなく、きちんと牛乳につぶされないように入れてあげること。

 私が、前向きに、素直に、肩の力を抜いてボランティアに取り組めるようになったきっかけは、ここにある。


*胸がすっきりすること。不平・不満が解消して気が晴れること。

 ボランティアへの報酬

 人は何の見返りもなしに活動できるだろうか、それは自己満足・偽善でしかないのではないか、というボランティア活動への懐疑は、神戸に来るまで抜けきれなかった。全てを損得感情で考えようとする私は、すごくイヤな人間ではないか。考え出すと自己不信に陥りそうな問題であった。だが、実際に活動してみれば、そんな問題はすぐ解決する。お金では得られないような報酬がたくさんあった。

 昼、パンを配っていた。ひと段落ついた時、横に小学生が2人立っているのに気づいた。腕白そうな、でも優しそうな少年たち。パンを欲しいのだけれど、もらいに行くのに照れと恥ずかしさがある様子だった。

「あなたたち、パン食べる?カレーパンとあんパンがあるよ。どっちがいい?」
と話しかけると、最初は遠慮していた彼らも、
「僕あんパン」「僕はカレーパン」
と手を差し出してきた。そして夢中で食べたあと、口のまわりを砂糖だらけにしながらこう言った。

「お姉ちゃん、このパンごっつうまいわ。ありがとう。」

 本当においしそうな様子で笑ったのだ。その一言を聞き、その笑顔に出会えるのが、ボランティアをする者への最大の報酬だ、と思った。

 よそゆきと普段着

 もう1つ、ここに来て良かったのは、「ファミリー」のメンバーたちにボランティアに対する変な気負いがない、ということだ。「さあやるぞ」といった変な義務感や使命感を持っていない。肩肘張っていない。誰もが自然にボランティアに参加している、という感じだった。学校に行ったり、バイトをしたり、デートに行ったり、その延長線上に「普段着感覚」でボランティアも位置づけられているようだった。

 メンバーの中に、貝瀬君という一橋大の2年生がいた。彼は長期で来ているのだが、私が来た次の日、彼はローリングストーンズのコンサートに行かなくちゃ、と言って1日だけ東京にとんぼ返りしてきた。彼の中では、ボランティアも日常の生活も違和感なく両立している。

 また、大阪・京都から来ている人たちもいた。彼らは、用事のある時、また定期的に地元へ帰り、骨休めしながらボランティアを続けている。みんなとても自然にボランティアに参加している。

 ボランティアは「よそゆき」を着ることではないから、ボランティアに参加することでくたびれてはいけない。ボランティア精神というのは、日常の暮らしの中にもある自然なものなんだな、と気付かされた。自分の仕事や家族を犠牲にする類のものではないのだ。自分のできる範囲で自然体でやれるからこそ長続きするんだ、ということを肌で実感した。だから、「ファミリー」のメンバーとともに仕事をするのは気持ちの良いものであった。

 ボランティアの難しさ

 魚崎小での本部とボランティアの関係はしっかりしていた方ではないか。

 被災者自身からなる本部、その下に松下の労組とファミリー国立のボランティア。松下も「ファミリー」も、毎日一定の人数を確保し、その行動については本部と打ち合わせの上決定する。にもかかわらず、ボランティアの難しさは存在する。

 まず、ボランティアに参加する人は、短くて2~3日、長くても1ヵ月。人の出入りは激しい。短期参加者がほとんどだ。そのため、長期の計画が立てられない。仕事も日々変化していくから、マニュアル作りも申し送りも満足にできない。私の場合、ルーティンワークを把握するのに丸2日かかった。ゆとりを持って周囲の状況がつかめてきた頃、東京に帰ることとなり、残念な気がした。また、人が目まぐるしく変わっていくため、ボランティア同士の結束も弱い。

 そして、長期の人たちが仕事を独占してしまうため、座る時間もないほど忙しい人と半日ぐらい手持ち無沙汰な人と、両極端に分かれてしまう。慣れている人にとってみれば、右も左もわからない「ボランティア初日」の人間に根気良く教えるより自分でこなしてしまった方が早い、と思う。また、老人家庭訪問などは、人と人との接触だから、続けて行きたくなる。看護師・介護士などは彼ら独自の視点もあろう。結果、一部の人たちが仕事を抱え込んでしまっているような気がした。毎晩30分から1時間ほどのミーティングを行なうとはいえ、仕事の把握、そして分担は難しいものだ。

 お金を落としてこい

 出発する前に、「ファミリー」のボス格である坂本さんが、現地入りしているボランティアに伝えてほしい、とこう言った。「最近ボランティアの仕事は減ってきている。ぶらぶらしているボランティアが目につくようになると、被災者たちは、ボランティアを自分たちの食事を食いつぶす厄介者、と感じるようになる。実際はどうであれ、現地にお金を落としてくることもボランティアの1つではないか。復興の一端を担うものではないか。1日1食ぐらいは外食するようにした方がいい。」

 初日、私はそのままをミーティングで伝えた。みんなの反応は、
「うーん。厳しい意見だ。」

 そして、私の結果。現地で使ったお金はお菓子とビタミン剤ぐらい。ほとんど財布を開けなかった。開けるような暇がなかった。ボランティアたちは皆次から次へと仕事を見つけ出してくるから、「ヒマな」時間なんてない。まず食事時は準備、片付けで最も忙しい時間であり、小学校を抜け出すことは不可能だ。生活物資は、現地で手に入るかどうか分からなかったから1週間分くらいは家から持って来ている。洗濯機は小学校にあるし、風呂は灘高の自衛隊風呂へ。夜遅く、お好み焼きや焼き鳥を食べに行く人たちもいたけれど、翌朝6時前に起きることを考えると‥‥。私は寝る方を選んだ。かくして、東京で普段の生活をするよりもずっと安価に過ごしてしまった。

 私はお金を落とすことはしなかったけれど、買い物客は他にいる。帰り道、阪神電車で梅田へ向かっていた時のこと。どこかの被災地の商店街が大バーゲンをしていたようだ。たぶん大阪からやって来たであろうおばさんたち4人組。大きな袋をたくさん抱えて乗り込んできた。「安かったわねぇ」と、興奮覚めやらぬ様子で話している。批判する人もいよう。だが、私は、この人たちはこの人たちで街に活気を与える重要な役割を担っている、と肯定的に捉えたい。

 人の顔が直接見えたこと

 今回、神戸に行って得た大きな成果の1つに、被災者の顔が直接見えたこと、を挙げたい。東京にいてメディアからの情報を受け取っている時には、震災がどうしても対岸の火事としてしか捉えられなかった。義援金にも救援物資にも何か空々しさを感じてしまう自分がいた。それはきっと、神戸の街を知らず、また直接の知り合いもいないため、被災者たちの顔、息づかいが見えなかったからだと思う。実際に現地入りして、挨拶したり、話をしたり、遊んだりする中で、それまで無名であった「被災者」が、名前を持つ個々人として感じられるようになった。彼らの「痛み」を、ほんの少しだが知ることができた。

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