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連隊館修士論文>第3章

修士論文 『行政計画策定過程における意見反映プロセスの事例分析』

第3章 日野市「第3次基本構想・基本計画」策定過程

1.概要

  東京都日野市は東京の南西部に位置し、都心から30km離れた人口16万3千人、面積2700haの街である(図3-1)。多摩川の中流域にあり、かつては水田が広がる穀倉地帯であったが、東京への人口集中に伴い近郊の住宅都市へと変貌し、60年代初めから現在までに人口は4倍に増加している。この日野市の今後10年間の方向を設定する計画が「第3次基本構想・基本計画」である。これは、前身となる「第2次基本構想・基本計画」が93年度に終結するため、策定する運びとなったものである。

図3-1 日野市の位置

 策定体制

  庁内では、主管の企画財政部企画課に「事務局」、さらにプロジェクトチームとして「調査チーム」と「推進チーム」が設定された。

  調査チームは、企画財政部長及び課長(各部の庶務担当課長及びこれに準ずる課長)15名程度で組織され、①構想・計画に必要な基本的事項の検討、②各部門ごとの計画原案の全庁的調整、③推進チームへの助言・指導を行なった。

  推進チームは、係長及び実務担当者29人で組織され、5分野に分かれて検討を行なった。その役割は、①構想及び施策の体系化の検討、②部門ごとに主管課原案の調整まとめ、③調査チームの指示事項の調査検討であった。

  事務局は、推進チームや各部課と調整しながら、①調査チーム及び推進チームの庶務、②その他計画に必要な事項の調査等を担当した。

  これに加えて、委託業者として地域計画研究所が加わり、市民意識調査の実施、推進チームに対するアドバイス、骨子の組み立て等を行なった。

  計画案は、各部課ごとに提出された後、まず推進チームで各分野ごとに取りまとめられ、そこで個別に上げたものを調査チームで全庁的な調整をし、庁議を経て決定される。ただし、基本構想に関しては、地方自治法で議会での議決が義務づけられているため、庁内でまとまった原案は議会に上程され、議会・付託先の委員会等で検討を加えられた(図3-2)。

図3-2 日野市「第3次基本構想・計画」策定体制

 策定経過

  策定に向けた体制作りは、93年度中の策定を目指して、92年6月より始まった。翌月より調査チーム・推進チームを中心に調査・検討を行ない、委託によりサンプル数2000の市民意識調査も実施され、9月には主管課より調査原案が提出されている。その後、各課ヒアリングなどを経て、翌93年春まで30回近い会議で庁内調整を行ない、原案がまとめられた。

  原案策定後、6月定例議会中に市議会各会派別に説明を行ない、その後各種行政委員会等に原案を提出して意見を求めた。また商工団体等の主要団体への説明も行ない、結局各行政委員会・諸団体あわせて55団体、684人に内容の説明を行ない、意見を求めた。一方、一般の市民に対しては、7月15日付の『広報ひの』に、4ページに渡って「日野市基本構想」(案)「日野市基本計画」施策の方向(案)の原文が紹介され、意見・要望等がある場合は、同月30日まで文書で受け付けることとした。

  こうした意見収集を踏まえ、8月には主管課にすべてを整理して戻し、再度検討を行なった。そのうえで、翌94年3月の定例議会に原案が上程され、付託先の総務委員会(19)で3月・6月・9月・12月と審査された。そして、委員会の意見をもとに5項目の訂正ないし補強がされた後、本議会で審議されたが、都市像を支える要素として「人間尊重、自治、参加、連帯のまち」を掲げながら、策定段階で市民参加ができていない、などの理由で同年12月にいったん否決された。

  その後、新年度に入ってから主管課の中で見直し案の検討を開始し、8月に入り推進チーム・調査チームで取りまとめを行なって、9月に議案として提出した。その後再び総務委員会に付託され、同年12月に賛成多数で可決された。そして、翌96年10月には基本計画も策定されたのである(表3-1)。

表3-1 日野市「第3次基本構想・基本計画」策定経過

2.主要アクターとインタビュー対象者

 行政

  前述のように、庁内体制は調査チーム・推進チーム・事務局を中心に構成されていたが、これらの組織及び各部課間、あるいは委託機関との調整等で大きな役割を果たしたのは、主管課である企画財政部企画課である。そこで、ここでは現在企画財政部企画課副主幹で、基本構想担当の小川孝氏に話を伺った。

 市民

  この時期日野市では、市民の有志(20)が、「何か市政を変えることはできないか」との想いから、当時基本構想が自治体で模索されていたのを契機に「日野・まちづくりマスタープランを創る会」(以下「創る会」)を結成し、その作業に取りかかっていた。これが『市民版 日野・まちづくりマスタープラン』として刊行されたのは95年4月のことであったが、それ以前には第3次基本構想・基本計画案に対して要望書を提出するなど、行政施策に対しても意見表明を行なっていた。そこで、ここでは意見を出した市民の代表として、当時「創る会」のメンバーで、現在「まちづくりフォーラム・ひの」として活動している金井透・川崎寛・中尾ひろえ・梁瀬悦司の4氏に話を伺った。

 策定組織

  基本構想の策定にあたっては、地方自治法の規定により議会での議決が義務づけられているため、最終的な採択権は議会にある。中でも委員会の1つである総務委員会は、議会より付託を受け、基本構想の実質的審議を行なっていた。そこで、ここでは策定期間中総務委員として活動していた、日野市議会議員・宮沢清子氏(公明党)に話を伺った。

3.分析①:なぜ意見反映プロセスを実行するのか

 前例主義的対応

  今回、日野市が実施した市民意見の収集方法は、原案作成後に原文を広報に掲載し、それに対して意見・要望がある場合は15日以内に文書で提出する、というものだけであった。なぜこのような意見反映プロセスを実行することにしたのであろうか。

  日野市は、当時の森田喜美男市長が73年に当選して以来97年4月まで、革新首長のもと「市民参加・市民自治」が謳われていた。これは、82年12月に策定された第2次基本構想で既に、都市像を支える要素の1つとして「人間尊重、自治、参加、連帯の都市」が掲げられていたことにも現われている。88年3月発行の日野市基本計画においても、森田市長は「この計画策定を契機として、これからの日野のまちづくりに参加意識と連帯感による市民自治を強めていただくことができればまことに幸いです」と述べているという(21)。また市民参加については「協議会、委員会等への市民参加あるいは市民会議、平和事業市民会議あるいはごみ減量市民会議等で行なってきて」(22)おり、第3次基本構想・基本計画策定期間中には、審議会や協議会に市民公募を受け入れる「市民参加要綱」も採択されている。その意味では、少なくとも理念上は市民参加・市民自治を唱えている以上、不特定多数の市民から意見を聞くという素地はあったと言える。

  ただ、今回の意見収集の手法は、15日という限られた時間で、しかも宣伝媒体に広報を利用するという方法のみであった。これについては「前回の第2次の基本構想を定めましたときの手法にあわせて取り進めて」(23)おり、「今まで行政の中で進めてきた手法を今回の場合にも踏襲」(24)したのだと釈明している。つまり10年前の手法を用いれば事足りるというわけである。しかも市長は、このような手法について「必ずしも多数の意見が寄せられるということは余り経験しておりません」と述べている(25)。企画課小川孝氏の話では、2週間という期間の設定には「日程的な問題」が大きく関係しているというが、たしかに前構想が終わる93年度中に策定を済ませる場合残り8~9ヵ月しかないにしても、15日で全体の内容に対し意見を求めるのは、十分な周知期間とは言い難い。

 市民・議会の反応

  これに対して、「創る会」メンバーであった川崎寛氏は「やらないよりはやった方が良い」としつつも、「市民に対する言い訳的には使えるけど、現実として真面目に(市民の意見を)聞く(行政の)態度じゃない」と述べている。この「創る会」自体は、もともと市民版の基本構想・基本計画づくりを目指していたこともあり、広報掲示11日後には市長と面会し、10ページに渡る「要望書」を提出することができた。その中で、今回の意見収集方法について述べているところを抜き出すと、以下の通りである(26)

①7月15日付の「広報」で原案が提示され、7月30日までに意見を述べよ、というのはあまりに性急すぎます。行政側が一方的に決めたスケジュールの押し付けは、市民参加を形式だけに終わらせる危険性があります。そもそも総合計画策定への市民参加とは、問題の発見・整理から提案に至るまでの全過程に市民が参加することだと、私たちは考えます。そのような市民の広範な参加を妨げ、行政単独で原案を策定すれば、「市民自らが参加し主体的に創造すること」(「基本構想(案)」第2章第1節)を不可能にさせると深く懸念いたします。

② 「原案」に対する意見表明の場として、文書以外に「市民公聴会」を各地域別に開催していただきたい。この「公聴会」は単に市民が行政に意見を述べる場だけでなく、市民同士が共通の課題について語り合うことによって、地域住民としての連帯を形作る貴重な場にもなりうると考えます。

  これを見ると、時間的にもプロセス的にも、より長い期間、より多くのチャネルを用いることを求めていたと言える。

  なお、これは実際議会においても問題とされており、議事録にも「とても配布をされてから回答を出すまでの時間が、十分、検討できるような状況じゃない、本当に形だけの市民参加の形態をとっている」とある。また宮沢清子氏も、総務委員会の審議において、2週間では周知期間として短いのではないかと指摘していたという(27)

  このように、今回は前例に倣った対応をしたのだが、その方法は極めて不十分であり、市民や策定組織関係者に不満を抱かせることになった。

4.分析②:どういう意見反映プロセスをとっているのか

 見えないプロセス

  次に、寄せられた意見がどのようなプロセスを経て計画に反映されるのかを検討しよう。

  15日間の周知、および議会・諸団体への説明によって寄せられた意見数は、基本構想に関しては77件、基本計画については192件で、計272件となっている。このうち、基本構想に対する意見の内訳は、団体11件、個人49人であり、基本計画については「公共施設の建設部分あるいは福祉に関係した部分が多」かったという。ただし、これらは議会での質疑の中で判明したことであって、一般的には、例えば広報に意見内容を掲載する等の処置は施されていない。

  寄せられた意見は、まず推進チームのもとに行き、そこで採用・不採用の是非を決めていた。その際どういった理由で可否の判断をしたのかは明らかでないが、寄せられた意見についてはここでのみ議論され、調査チーム・庁議・議会へと上がっていく段階では、意見内容が生の形で出てくることはなかったという。その意味では、意見の可否の判断は全面的に推進チームの裁量に委ねられていたことになる(図3-2参照)。

  こうして意見が取り込まれたが、具体的な反映箇所となると、市では全く公表していない。唯一市議会の議事録からわかるのは、基本構想の77件の意見のうち、23件について何らかの形で取り入れたということだけである。もちろん、意見を出した市民に対しても、いっさい反映結果はアナウンスされていない。小川氏の話では、基本構想だから「言葉の言い回しとか、部分」が修正されたにすぎず、それほど内容は変わっていないという。

 プロセスの公開を

  こうしたやり方に対して、「創る会」では、意見を言ったがその後何も返答がなく、「梨のつぶて」であったと、半ば呆れ気味に話していた。自分たちの意見が「生かされたかどうかが全然わからない」という。原理的には、広報に載った原案と上程された案等を比べれば分かるかもしれないが、「創る会」自身はそこまで行なっていないという。なお「要望書」の段階では、以下のようにプロセスの公開を求めていた(28)

③原案確定の際、今回市民からどのような意見が表明され、それがどのように確定原案に反映されたのか、あるいは反映されなかったのかを、何等かの形で市民に明らかにしていただきたい。

④確定された原案は、議会で審議されるに先だって「広報」を通じて市民に公表し、その全文の写しを希望する市民に配布していただきたい。

  結果的には、このどちらも実行されなかったわけである。これに対し、川崎寛氏は「例えば一月なり半月後なり間を置いて、意見を返してもらう機会を作って、さらにその結果を公開するとか、またはそういう(意見を出した)人たちを集めてヒアリングをする機会を設けて、それに対して…担当者が来て、その場でやりとりをして」いくべきだと述べている。すなわち、意見を出した方からすれば、一方的に意見を受け取るだけでなく、結果を公開するなり、双方向のやり取りをするなど、行政側にアカウンタビリティ(説明責任)を求めているのである。

5.分析③:意見反映プロセスの採用でどんな影響があったか

 時間のロス

  こうした前例に則った、形式的な意見反映プロセスしか採用しなかったことで、議会での審議が長引くこととなった。「市民参加・市民自治」を謳いながらも「7月15日の『広報ひの』に1回だけ基本計画(案)を掲載し、そして同月の30日までには御意見、御要望を文章でお寄せ下さい。そして最小限の各種団体への説明だけ記し、これが果たして『人間尊重、自治、参加、連帯の都市』の市民参加であるとは甚だ疑問を感じざるを得ない」などとして、94年12月20日に賛成少数で否決されているのは、先に述べた通りである。結局可決されたのは、その1年後、95年12月のことであったが、行政側としては当初第2次基本構想・基本計画が終結する93年度中に策定を目指していたから、予定より2年近く遅れたことになる。これには、当時の森田市長が共産党系であったため、市議会は少数与党であったという政治状況も大きく影響していると思われるが、少なくともこうした攻撃を可能ならしめたという意味で、大きな影響だと言えよう。

 その後の変化

  ところで、この第3次基本構想・基本計画策定中に、「創る会」の有志が直接請求による環境基本条例案を提出し、95年9月に修正可決されたのであるが、97年9月になって、それを具体化するための環境基本計画の策定が始まった。そして、その策定作業にあたって、行政側が「市民ワーキングチーム」という完全公募の検討会メンバーを100名ほど募集した。結局115名応募があり、庁内での検討の結果全員採用されて(29)、現在は水、緑、大気、リサイクル、くらしの5分科会に分かれて勉強会や現地視察を行なっている。この担当者(企画課)の話では「市民が参加してつくることに対する不安が、庁内にも若干ありました」(30)ということだが、素案策定以前の段階から多くの市民と協働して計画を作るというのは、先の第3次基本構想・基本計画策定過程とは大きな違いである。ただ、中尾氏の話では、担当者は「できるだけ市民の意見が反映されるような形にしていきたい」と言ってはいるものの、金井氏が言うように、市民側からすると「意見がどう反映されるのかというイメージがまだない」のが現状である。

  他方、小川孝氏は、これからの意見収集方法としては「地域に出向いて生の声を捉えていかないといけないのかな」と述べつつも、逆にこうした地域での説明会をやれば十分であり、せいぜい「時間帯の設定」を工夫する程度で、他の手法はあまり必要ないとの認識であった。小川氏は、97年7月になって企画課に異動してきたこともあろうが、同じ部署内であっても、環境基本計画担当(31)と基本構想担当の職員間で認識の差がこれほどあるのが明らかになった。

6.考察

  以上のように、日野市の第3次基本構想・基本計画策定過程では、行政側が市民参加・市民自治を謳い、市民側にも参加意欲の高い市民が存在していたにも関わらず、極めて限定的かつ形式的な意見反映プロセスを採用した。そしてその結果、行政側は策定が大幅に遅れる要因をもたらし、意見を出した市民側には徒労感が残った。その意味では、この事例によって、意見反映プロセスを有効に機能させるためには、単に市民から意見を収集するだけでなく、十分な周知期間を確保し、意見を述べる機会を様々に確保した上で、寄せられた意見に対するアカウンタビリティを十二分に行なう必要がある、ということが明らかになったと言えよう。


[注]

(19) 市議会に設けられた常任委員会。議会における審議の徹底と能率的な議事運営を目的として、条例によって設置される。

(20) 当初は生活クラブ生協のメンバーなどが母体になっていたが、その後新聞を通じて参加者を募り、80名ほどの希望者を加えることとなった。

(21) 日野市議会「平成6年第4回定例会第38号」議事録、黒川重憲議員の答弁より。

(22) 日野市議会「平成6年第4回定例会第38号」議事録、黒川重憲議員の答弁より。

(23) 日野市議会「平成5年第2回定例会第14号」議事録、森田喜美男市長の答弁より。

(24) 同、砂川雄一助役の答弁より。

(25) 同、森田喜美男市長の答弁より。

(26) 日野・まちづくりマスタープランを創る会『湧水』15号より。

(27) ただし、当時の総務委員会会議録は公開されていない(96年度より一般公開)。

(28) 日野・まちづくりマスタープランを創る会『湧水』15号より。

(29) ただし、応募後日程・身体・その他の理由により辞退した人がおり、97年10月時点では109人体制である。

(30) まちづくりフォーラム・ひの『復刊・湧水』第6号より。

(31) 97年11月1日より、環境基本計画の担当は公害対策課に変わっている。

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