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連隊館学士論文>第3章

学士論文 『ポスト企業社会とボランティア』

第3章 ボランティアとは何か

1.ボランティアとは?

 一般的なイメージ

  一口に「ボランティア」と言っても、その活動の中身は多様であり、それゆえ多くの人がその存在を認識しているにもかかわらず、これまであまり明確な定義づけは行なわれていなかった(1)。しかし、ごく一般的には「自ら進んで人や社会のために尽くす無償の行為」と解されている(2)ようである。そして、こうした定義から、基本原則として「自発性」(「自ら進んで」)、「公共性」(「人や社会のために尽くす」)、「無償性」(「無償の行為」)の3つがあげられるのである(3)

  しかし、このような「尽くす」とか「無償」とかいうことから、ボランティア活動のイメージには、どうもある種の暗さが付きまといがちである。奉仕、慈善、偽善、禁欲、滅私奉公、地道‥‥他者の幸せのために自分を犠牲にする「なかなかできない」活動。残念ながら、そんなイメージが今だに根強いと言える(図1(4)。そして、いつしか「割りの合わない仕事」までボランティアと呼ぶようになってしまったのだ。

図1 ボランティア活動に対するイメージ

  だが、本当にこれで良いのだろうか。これで「ボランティア」を言い表しているのであろうか。そこで、これから3原則それぞれについて検討していくことにしよう。

 原則1──「自発性」

  これは、ボランティアは命令されたり、強制されてはならず、あくまで自発的なものである、という原則である。やりたくもないのに拒否できず、義理やしがらみでやらされてはいけない、と言う訳である。だから、会社の業務命令でやるのはボランティアとは言い難い。また、組合、自治会、クラブなどで要請され、不承不承参加するのもいただけない。そういうものは、ボランティアというより、むしろ「勤労奉仕」に近い行為である(5)

  もっとも、この原則は、ボランティア(volunteer)の語源が、英語のwillにあたるラテン語のvolo(=決意する)の派生語voluntas(=自由意志)である(6)ことからすれば、至極当然のことである。それに、「ボランタリー(voluntary)」が「自発的に」とか「自由意思で」を意味することを考えれば、「自発性」の重要性は自明であろう。

  しかし、どこまでを「自発性」と解釈するかでは意見が分かれる。例えば、ある人は全て本人の意志に任せるべきだとして、活動者の募集すらするべきではないと言う。また別の人は、友人などに頼まれて、あるいは誘われてやるのも立派な活動だと言うのである。だが、前者の立場をとれば、ボランティアはどうしても取っ付きにくい、閉鎖的な活動になってしまい、上述したような、暗い、偏見めいたイメージを強化することになってしまう。これでは、もともとの「意志」が充分には生かされないであろう。他方、後者については、微妙な問題であるが、それが断われる関係であるならば、引き受ける時点で、少なくとも消極的自発性は発揮されているはずであり、許容範囲であると考えられる。それに、「誘われて参加してみたら結構楽しくて充実感があって、それでやみつきに」という人も少なくない(7)ことを考慮すれば、間口は広くしておくべきである。

 原則2──「公共性」

  これは、ボランティア活動は特定の個人や団体の利益、特定の思想・信条・宗教・民族・目的集団のみの利益のためにあるのではなく、全ての人々の普遍的な利益に還元されるべきだ、という考え方である(8)。例えば、道路を掃除するのはボランティアであるが、自分の家の前だけ掃除したり、右隣りは掃くが気にくわない左隣りは掃かない、というのはボランティアではなく、単なるいやがらせなのである(9)

  しかし、このことは、行政のように振る舞うということを意味するのであろうか。

  行政の場合、その取り組みは1つの公的な制度になるから、長期的に継続できるものとなるよう慎重に吟味される。各界の意見を聞き、どこからも批判の出ないものであることが求められる。そして、それは公平・平等に配分され、特定の対象に有利に働いてはならないのだ(このため、緊急時であっても数の足りない物資は出さない、ということが起こる)。

  だが、このような形で活動をするのは実に窮屈である。「思いつき」は許されない。独創的な発想は危険である。そして、そのために、好みや関心などの自分の気持ちを抑え、全体に奉仕する姿勢が求められる(10)。これでは、先に述べた自らの「意志」や「思い」は生かされない上に、「献身」や「自己犠牲」といった否定的なイメージが強まってしまうのである。

  このように考えると、やはりボランティアというものは、そうしたことに限定されない活動である。「自発性」を基本理念とするのであるから、「好み」でやられて然るべきなのである。好きなスポーツを教えるボランティアをしている人が、やりたくもない老人介護のボランティアをしなければならない、ということでは決してないのだ。それに、例え利己的なものであっても、その行為が相手・対象に対する「共感」を媒介として開かれているのであれば、それは公共的なものとなるのである。その端的な例としては、慢性骨髄性白血病に冒された息子を助けるために、骨髄バンク運動を始めた母親の姿があげられるであろう(11)

  上記のように、ここで言う「公共性」とは、私利私欲に立脚したものであっても、社会的に開かれたものであれば良い、と解するべきである。

 原則3──「無償性」

  これは、活動参加者の自由な意思や提案、社会的行動が尊重されるためには、金銭を始めとした報酬に拘束されるべきではない、というものである(12)。しかし、この原則はこれまで様々な場面で論争の的となってきた。絶対に「無償」でなければならないのか、そもそも「無償」とは何か、と。

  確かに、ボランティアは「無償っぽい行為」ではある。しかし、この原則を貫徹しようとすると、貧乏人はボランティアができなくなるし、ボランティア団体の事務局も成り立たない。そして、働く必要のない「貴族」の手すさび、金持ちの道楽以外はボランティアとは認められないことになる(13)。これではせっかくやる気があっても、やればやるだけ生活は苦しくなるし、偽善っぽいので、ボランティアをやろうという人は一部の「特別な人」になってしまうのである。

  だが、ボランティアを受け入れる人(クライアント)の中には、謝礼によって感謝の気持ちを表したいという人がいるので、「無償」を主張しすぎると、逆に気楽にボランティアを依頼しにくくなってしまう。そのため、場合によっては、一律の謝礼金でも決めて活動する方がかえって機能的になるのだ(14)。それに、いわゆる「有償ボランティア」の報酬をみても、とてもその「労働」の対価に見合ったものではなく、民間企業で働く方がよっぽど儲かる。つまり、儲けようとしてやっているのではないのである。それならば、ボランティアの本来的な性格からはずれるものではないと言えよう。

  また、ボランティアは一般に「善いこと」と思われているから、それを逆手にとって、地位や名誉、ないしは成績の向上を目的として活動に参加することが考えられる。しかし、これについては、ボランティアの「自発性」を考慮すると、自らの「意思」や「思い」ではなく、外部からの「報酬」が自己目的化してしまったものであるから、ボランティアとは言えないであろう。とは言え、活動の結果としてこうした社会的報酬が付随してきた場合は、この限りではないと思われる。

  よって、この「無償性」とは、経済的・社会的利益を目的としないものであれば、例え有償であっても良しとするべきである。

 私見による定義

  以上の議論を踏まえると、ボランティアは、まず何らかの形で自発性を発揮しなければならないであろう。そのうえで、社会に対して開かれており、経済的・社会的利益を目的としない行為だと言える。よって、次のように定義することとする。


  ボランティアとは、「ある(社会的な)問題に共感して、自ら進んで、経済的・社会的報酬を目的とせず、責任を持ってそれに対処する行為、もしくはその人」である、と。

2.フィランソロピーとは?

 日本での捉え方

  一方「フィランソロピー」という言葉も、最近よく使われているわりには、はたしてどれほどの人がこの言葉の意味を正確に把握しているのか、大いに疑問である。

  と言うのも、日本でこの言葉がまともに使われ出したのは、たかだか80年代になってからである。それは、日本企業のグローバル化、とりわけアメリカへの進出の過程で必要とされたのであり、それゆえ日本では、この言葉はまず企業に蔓延した。そして1990年の「フィランソロピー元年」以来、日本企業の中にも「社会貢献部」等の部署が設置され、会社案内などでも、こうした動きを積極的にアピールする企業が増えてきている。こうした経緯のために、企業フィランソロピーは「企業の社会貢献」と訳され、いつしか、「フィランソロピー」そのものが「企業の社会貢献」を意味するかのように誤解されてしまったのである(15)

 本来的な意味

  しかし、フィランソロピーとは、もともとは極めて個人的な発想に基づくものである。語源的には、フィランソロピー(philanthropy)は、ギリシャ語で「愛すること(loving)」をあらわすphiloと「人間または人類(human being)」 をあらわすanthropoとが合成されて出来た語であるから、本来的には「人間愛または人類愛(love for mankind)」を意味している(16)。人を愛すること、つまり同胞への仲間意識や博愛、人々への寛大な気持ちを表現しているのである。そこには、他者に対するある種の心意気、熱い気持ちがある。企業のような組織の場合は「社会貢献」でいいかもしれないが、個人の場合には、どうもそれではなじみにくい。ともかく、フィランソロピーとは、そのような心意気や気持ち、あるいはそれに基づく行為をあらわす言葉なのである(17)

 フィランソロピーの定義を巡って

  しかし現在では、一般的には、個人や企業が広く社会一般の公益のために寄付を行なったり、あるいはボランティアとしての労働力の提供を行なったりすること、だとされている(18)。出口正之氏の定義では、それは「弱者の救済、学術の振興、文化・芸術の支援などの公益性の高い分野での寄付活動やボランティア活動を総称した言葉」となっている(19)。また、たいていの書籍でも、同じ様な意味合いで使われているようである。

  しかし、これで本当に良いのだろうか。アメリカでは、これを「やさしい人間愛」と訳しているという。また、中国語には似通った言葉として「為己為人」がある。これには、人の為にではなく、自分の為にボランティア活動をしよう、そして優しい人間愛に溢れた社会をつくろう、との願いが込められている(20)。フィランソロピーという言葉にも、こうした「思い」が込められているのではないだろうか。

  以上のように考えると、フィランソロピーという言葉は、広い意味で捉えた方が良さそうである。よって、ここでは次のように定義することとする。


  フィランソロピーとは、「人間愛にもとづいて、思いやりの心を体現する行為」である、と。

  このように、ボランティアとフィランソロピーは、関心の高まりの中で様々に解釈されている。本章では、その一端を眺めつつ、この言葉の意味を問い直したのであるが、それでは、こうした「ブーム」は、果たして単なる一過性のブームなのであろうか、それとも未来社会に向けての新たな芽生えなのであろうか。それを、次に考えてみよう。


[注]

(1) 『国民生活白書(平成5年版)』(前掲)、118頁参照。

(2) 戸高真弓美編『大震災ボランティア』(ASAHI NEWS SHOP、1995年)、3頁より。

(3) なお、4原則という場合は「先駆性」が、5原則という場合は「継続性」が含まれる。

(4) 早瀬昇『元気印ボランティア入門』(大阪ボランティア協会、1994年)、1頁参照。

(5) 『朝日ワンテーママガジン25 ボランティアの本』(朝日新聞社、1994年)、157頁参照。

(6) 『ボランティアの本』(前掲)、152頁より。

(7) 同書、157頁参照。

(8) 興梠寛「みずからの手で、その扉をひらこう」(国立中央青年の家 平成7年度主催事業『社会教育ボランティア養成研修 I 』講演資料)、2頁参照。

(9) 『ボランティアの本』(前掲)、158頁参照。

(10) 早瀬昇、前掲書、2頁参照。

(11) これについて簡単に説明しておこう。長谷川知(さとる)君が慢性骨髄性白血病に冒されているとわかったのは、1986年の夏。知君が小学校5年生の時である。「血液のガン」とも呼ばれる白血病だが、健康な人の骨髄を移植すれば治る可能性はある。しかし、この場合、移植の前提となる白血球の型が同じ人は周囲にいなかった。そこで87年末、母親の真知子さんは同じ型の白血球を持つ人を広く社会に求めようと、骨髄バンク設立運動に取り組み出したのである。そして、5年半に及ぶ親子の戦いの末、91年12月に、公的骨髄バンクである骨髄移植推進財団の発足にこぎつけたのだ。だがその甲斐も報われず、92年2月7日、知君は短い一生を終えた‥‥。

(12) 興梠寛、前掲文、1頁参照。

(13) 『ボランティアの本』(前掲)、158頁参照。

(14) 「有償性」が生まれる歴史的経緯については、田中尚輝、前掲書、第四章「ボランティアと市民事業」の1「旧来のボランティア論の限界」(115-131頁)に詳しいので、そちらを参照のこと。

(15) 林雄二郎・山岡義典編『フィランソロピーと社会』(ダイヤモンド社、1993年)、i-ii頁より。

(16) 丹下博文、前掲書、4-5頁より。ちなみに、辞書を引くと「人類愛」とは「特定・個別の人間に対してではなく、人類全体に対する愛情」となっている。

(17) 林雄二郎・山岡義典編、前掲書、ii頁参照。

(18) 本間正明編、前掲書、15頁より。

(19) 出口正之、前掲書、7頁より。

(20) 佐々木晃彦『豊かさの社会学』(丸善ライブラリー、1994年)、186頁参照。

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