検索 Google
五輪館
毒語館個人的体験記

[2000.1]

個人的体験記

震災5年(後編)

前編より)

4.思い出の場所巡り

  17日、私は早朝5時に起き、手早く支度を済ませて、20分後には宿を出た。0時を廻った頃から今回のエッセイを書き始めたので、1時間半しか眠っていなかったが、運命の時を間近に控えていたせいか、頭は異常に冴えていた。

  そして暗闇の中を10分ほど歩き、魚崎小には5時半頃到着した。辺りを見渡すが、誰がいるわけでもない。昨日散歩したときに、校内に「慰霊碑」ができていることを知ったので、その方面に行こうとするが、門が硬く閉ざされており、中に入ることはできない。仕方なく、門の前でしばし待っていると、まもなく5年後の5時46分を迎えることになった。私は、慰霊碑に最も近い門のところで黙祷を捧げるとともに、5年前のこんな暗い時間に惨事が起きたのだと、ふと感慨にふけった。

Vacant lot
さら地:震災の爪跡が色濃く残る

  それから、以前歩いた魚崎周辺の街並みを、再び歩いてみることにした。5年ほど前に歩いた時は至るところ瓦礫の山であったが、さすがに今は瓦礫はなくなり、街は平穏を取り戻したように見える。しかしよく見ると、所々さら地が見られ、震災の爪跡は根絶されたわけではなかった。魚崎小のすぐ近くにあったパン屋(ボランティアとして来た時の最終日に、そこで買ったものを皆に差し入れした記憶がある)も、今はなくなり、店舗募集の張り紙がしてあった。震災と不況のダブルパンチが今なお神戸の人々を苦しめていると聞いていたが、その現実の一端を垣間見たような気分であった。

Vacant lot for houses
仮設住宅が撤去された跡

  一通り歩いてもまだ6時頃だったので、明るくなるのを待つために、六甲アイランドに足を延ばす。六甲アイランドは、魚崎とは目と鼻の先であるが、当時は六甲ライナーが不通(半年後ぐらいにようやく復旧)で、3月に一度だけ被災者に車で連れて行ってもらったことがある。

  初めて六甲ライナーに乗ると、ものの10分程度で着いてしまったが、辺りはようやく明るくなり始めたところだったので、また少々歩いてみる。島を南北に歩くが、途中にあった仮設住宅は撤去され、きれいなさら地になっていた。さら地と復興住宅らしき建物と、以前からあった立派な街並みが、何とも言えない街並みを構成している。人々は普段と何ら変わりなく通勤・通学しており、私は明らかに浮いていた。

Highway
至極立派に復旧した阪神高速道路

  こうして7時半頃には魚崎に戻り、今度は南側を歩いてみる。南魚崎の辺りは酒蔵の多い所として有名であり、観光名所でもあるようだが、酒好きではないのでピンとこず、すたすたと歩いてしまった。そしてまもなく、至極立派になった阪神高速の下を通って、私は再び魚崎小に帰着。既に登校が始まっているので門が開放され、慰霊碑にお参りできるだろうと思ってのことだ。

5.偶然の再会

  児童がぽつぽつと登校する中、私は恐る恐る慰霊碑に向かった。慰霊碑の前にはテントがあり、既に何人かの人がいたが、誰が何の目的でいるのかもわからなかったので、ひとまず慰霊碑に近づいて眺めていた。すると人が近づいてきて「ここにもうじき犠牲者の名前を並べるんですよ…」などと説明を始めた。その人を見ると、以前お世話になった高砂(魚崎小復興対策本部)本部長ではないか。

  とっさに、私は「高砂さん、僕を覚えていますか?」と少々興奮気味に話し掛けた。高砂さんも突然の言動に驚いたようだが、「あれっ? ええと、待てよ…ボランティアで来た………名前何だっけ?」。名前を告げるとすぐに思い出したらしく、「よく来てくれたなぁ~」と歓迎を受け、他の皆さんがいるテントに招かれた。

Monument at Uozaki
魚崎の慰霊碑

  テントには、震災後一致団結して神戸・魚崎の復興に尽力してきた人たちが5人ぐらいいた。お茶をいただいた後、紹介を受け、当時の話やァミリー国立の面々のその後のことなどに花を咲かせた。震災直後は他の地域のことなど全くわからなかった(=それどころではなかった)とか、ああいう時こそ人間性が出る、などと語る被災された方の言葉は、実感が伴っており、説得力があった。

  そうした話の中で、私に対して「今でも震災のことについて話したりするんか?」と質問があった。…残念ながら、東京ではそのようなことはほとんどない。仕方なく、私は正直にそのことを告げ、また今回企画が失敗したことも報告したが、そのようなことしか伝えられない自分が歯がゆくて、無性に悲しかった。それを悟ったのか、被災された方は一瞬悲しげな表情を見せた後、私を責めることもなく、ねぎらいの言葉をかけてくれた。

  時間が経つにつれ、地域に住む方や学校の先生などがお参りに参上するようになった。校長先生も現れ、挨拶も交わしたが、これから行う追悼行事については、児童の全員ではなく有志のみでと話していた。5年経っても、当時のことを思い出させたくないという親の配慮が一部にあるようだ。高砂さんらは当然のように了解していたが、ここにも5年という時間だけでは癒されない心の問題が垣間見られた。

Schoolhouse
まもなく解体される魚崎小の校舎

  また、震災を乗り越えた魚崎小の校舎も、今年中には解体される予定だという。もともと古い校舎で、震災前から建替えの話もあったらしいが、もう図面作成まで来ているというから、解体も間近であろう。そこで、今年の秋にでも「お別れ会」をして、皆でまた集まれるようにしたいとのことであり、私も(できる範囲での)協力を誓った。これが最近会っていない元ボランティアたちの再会の機会になるのなら、と信じて…

  結局9時頃まで話し込んだが、宿のチェックアウトもあり、そろそろ潮時だと判断して、私は最後に慰霊碑へのお参りだけ済ませて、後ろ髪を引かれる思いで宿に戻り、9時半過ぎにはチェックアウトを済ませた。

6.神戸の灯

  それから、私は西へ、三宮へと向かった。三宮周辺には震災の記憶を後世に伝えるための施設が集積しているので、それらを見ておこうと思ったのである。

  阪神電車で三宮に到着し、遅い朝食を済ませた後、私は南に歩いて、昨日出来たばかりの「慰霊と復興のモニュメント」(東遊園地内)を見学した。ここは地下の瞑想空間に入れるようになっており、中には震災で犠牲になった方々の名前と、モニュメント作成に協力した方々の名前があり、外には今朝5時46分に点灯された「1.17希望の灯り」もあった。瞑想を終えて俗世に戻ると、すぐ隣のイベント会場にはたくさんの竹筒と鎮魂の灯がともる雪だるまがあった。私が行った時間はあいにく準備中で何をしていたわけでもなく、夕方の5時46分に灯をともすとのことだったので、会場を後にして、先に来た道を戻った。

Monument
慰霊と復興のモニュメント

Event
「1.17希望の灯り」イベント会場

Panel of photos
市役所前に貼られていた震災時の写真パネル

  道すがら、震災時の写真が貼られたパネルなどを見つつ駅前に戻り、今度は阪神・淡路大震災復興支援館「フェニックスプラザ」に赴き、展示を見て回った。ちょうど5周年特別展も行われていたので、パネルやビデオなどを見て、5年前の衝撃と、被害の深刻さを改めて記憶に留めた。

  特別展の中には、震災後まもなくの頃と3年後を撮った航空写真があった(どうしても魚崎に目が行く)が、状況はあまりにも違っていた。海から見た長田の火事の模様など、映像も強烈なものが多く、被災地の姿に見慣れているはずの私でも、衝撃を受けずにはいられなかった。

Phenix Plaza
三宮駅前にあるフェニックスプラザ

  その後、正午の追悼式典を少々テレビで見た後、三宮周辺を歩いてみた。5年数ヵ月前に既に歩いていたが、その間大きな被害を受けているにもかかわらず、ぱっと見では元通りに戻っていた。

  そして本屋に寄って関連書籍を物色し、名物の豚まんを買ってからは、一路神戸大学に向かう。実は震災文庫にリンクをお願いした際に、『それぞれの探し物』の冊子とCD-ROMを直接渡しに行く旨伝えていたのである。そこで阪急の六甲駅で降り、バスに乗って大学のある高台へと向かった。

  神戸大学は、私にとって神戸で訪れた最初の地であったが、5年数ヵ月経っても変わらぬ姿がそこにはあった。3時に会う予定が2時半には到着してしまったので、眼下に広がる神戸の街並みを見ながら豚まんを食べ、その後早めに震災文庫に行って、どんな書籍があるのかしばらく見てみた。さすがに全国から集めているだけあって、相当の資料が集まっていた。ここに『それぞれの探し物』も陳列されるのかと思うと、感慨深いものがある。

  そうこうするうちに3時になったので、担当の渡辺さん(本当の担当者は休暇中だったので、それに近い方)とお会いした。別室に通され、資料を渡すだけでなく、当時の様子や震災文庫の現状、これから目指すことなどについて話を伺った(別刷の関連論文までいただいた)。震災から5年が経過したが、集まる書籍はいまだに順調に増えているという。やはり神戸では今なお語り継がれているのだと、少しホッとしたものである。

Kobe Univercity
神戸大学 (一橋とはまた違った趣きがある)

  30分ほど話をしたらお別れし、せっかくなので六甲山にも足を延ばすことにした。実は六甲山へは、震災から1ヵ月半ほど経った頃、被災者に連れられて一度だけ夜景を見に行ったことがあるが、それが5年でどれほど変わったのか、この目で確かめてみたかったのだ。

  そこで大学近くのバス停から乗車し、急坂を登ってケーブルカーに乗り換え、まもなく山頂に到着。4時半頃に着いたと思うが、まだ陽が射しており、平日ということもあって人はほとんどいなかった。さすがに山頂ともなると寒いが、阪神地域が一望できて素晴らしい眺めであった。

  やがて、5時半を過ぎた頃から灯りが目立ち始め、「1,000万ドルの夜景」と言われる絶景が姿を現し始めた。前に来たときには、まばゆい光を放つとはお世辞にも言えない、何か寂しさを伴ったような夜景であったが、さすがに今回は違った。陽が落ちて徐々に灯りがついていく様は、まるでこの5年間の復興の歩みを早回しで見ているようであった。

  そして午後5時46分、私は眼下に広がる神戸の夜景を拝みながら合掌し、改めて犠牲となった方の冥福を祈った。5年12時間前に、この美しい夜景が一瞬にして暗闇と炎に襲われたのかと思うと、今でも信じられない気持ちである。絶対にあの日を忘れない…そう心に誓って、私は六甲山を降り、神戸を後にした。

Night view of Kobe
5年目の神戸夜景 -陽が暮れて灯が灯る-

終.心に刻みつけて…

  こうして、震災から5年を振り返る旅は終幕を迎えた。今回のプロジェクトは、自己満足ではいけないと思いたって始めたものだが、プロジェクトが頓挫したことで、結果的に自己満足の旅に終わったのは悲しい矛盾である。それでも、5年前の出来事と思いを自分の中で再確認できたし、神戸の方にも会うことができたので、短い時間ではあったが、神戸に行って良かったと思っている。

  ただし、誤解されては困るので一言加えておくが、神戸を訪ねること自体は、すごいことでも何でもない。来てただ観光するだけであれば、地元であれこれ考えをめぐらせてもらった方がよほどマシである(現に、六甲山では単なる観光目的のうるさい人たちもいた)。問題は、単に現地に足を運んだかではなく、どれだけ思いを馳せることができたかであろう。たとえマスコミに踊らされたのであっても、震災5年を契機に何らかの感慨なり思いを抱くようであれば、それが犠牲者にとっての何よりの供養となるはずだ。

  こんなことを書いても、たいていの人は「5年も前のことを引きずるなんて、めめしい奴だ」と思っているかもしれない。確かに、時間が悲しい思いや辛い体験を忘れさせてくれることもあるだろう。後ろ向きの人生ではなく、前だけを向いて生きていくという人もいるだろう。それはそれで、各人の思想まで否定する気はない。

  だが、人間の人生には(完全な)リセットは効かない。現在があるのは過去の人生の積み重ねがあるからであり、それを否定してしまっては、今を否定することになるのだ。過去を振り返り、自分の足跡を確認しながら生きていくしかないのである。それに、その中には自分自身に、ときには社会に対してさえも伝えていかなければならないものがある。それは各人によって異なるだろうが、私にとっては、阪神大震災の体験がそれに当たるのである。

  被災者の中には、本当に忘れなければ生きていけないような体験をした方もいるだろう。そういう人に上記のようなことを言うのは酷だが、せめて真に辛い体験をしていない私のような人間は、この体験を絶えず後世に伝えていかなければいけないのではないか。そう思って、また当時私をボランティアに駆り立てた思いを心に刻みつけて、これからも生きていきたい。だから、最後に神戸に贈る言葉はこうだ。

「決して忘れはしない いつまでも 伝え続ける」

Page Top
Copyright © gorinkan.org All Rights Reserved.