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五輪館
毒語館個人的体験記

[2000.1]

個人的体験記

震災5年(前編)

序.宿命

  阪神大震災から5年が経過した。こういう節目を迎えると、改めて時が経つのは早いものだと思ってしまう。当時私は大学3年であったが、その後大学院生、社会人となり、現在に至っている。

  震災は、私にとっては不思議な因果であり、被災者ではないけれども、その後の人生を大きく左右した出来事だと言える。

  初めて神戸を訪れたのは、震災からわずか2ヵ月前、神戸大学に行った時のことである。一橋大学と神戸大学、大阪市立大学との「3商大ゼミ」が、持ち回りでたまたまその年神戸大学で行われたためであった。しかも、ちょうど同じような時期に、私は卒論でボランティア・NPOについて書くことをほぼ固めていた。そこに震災勃発…テレビで被害状況を見たのは朝の8時前であったと記憶しているが、その時の衝撃とともに、その後の震災ボランティアの活躍を耳にするにつけ、現地に行かなければ、という意識が醸成されたのは言うまでもない。

  現地に行ったのは、結局2月下旬~3月上旬と、3月下旬~4月上旬の2回であったが、その頃は比較的安定期に入っていたため、満足な支援ができたかというと、必ずしもそうとは言えない。しかも、私は自分のテストやらレポートやらを優先させたため、ボランティア活動に加わったのは、震災から2週間あまり経過した、2月上旬のことであった。このことは、今でも心残りである。なぜすぐに支援に行かなかったのか、と…しかし、だからこそ、忸怩たる思いがあったからこそ、「震災ボランティア外伝」のような出来事が生まれたのだろうし、活動を終えた後も活動報告書作成等に奔走できたのだと思う。

  その後、完成した活動報告書『それぞれの探し物』が一人歩きを始める。まず、完成まもなく朝日新聞地方版への掲載が決まり、私が取材を受けることになった。また、結果的にはこの報告書作成が、落ちると思っていた大学院を合格へと導き、その後のボランティア・NPO・地域情報化等の実践的学習を可能にしたと言っても過言ではない。それに、院のドクターの方の修士論文に、この『それぞれの探し物』が引用されていたというのも、何かの因果のような気がしてならない。その上、この冊子を(完全な形で)ホームページ上に掲載してからは、様々な方から時折意見をいただいたり、インタビューを受けたり、イベントでの利用許可を求められたりしている。

  まさに、私にとって5年前の震災ボランティアは、運命の糸に導かれたような、宿命のようなものだったのだ。

1.「5年」に向けて

  しかし、年月が過ぎるにつれ、震災の記憶は、特に神戸から離れた地では風化していってしまう。マスコミも、半年、1年という節目には特集をしたものの、その後は忘れたような素振りを見せている。一般にも、震災の話題が出ることはほとんどなくなった。以前報告書を作成した動機が「活動の経験をそのまま風化させることなく…生かしていく」ことにあったから、今一度、考えて直してもらうきっかけを作る必要があると思っていた。

  そこで、4周年を迎えた日、何人かの元メンバー宛に、1年後にはボランティアの5年後を追うような活動をしたいものだと記してみた。5周年であれば、マスコミも取り上げるという読みもあって、この頃なら昔参加した人たちも協力してくれるに違いない、と考えてのことだ。これに対しては、3名の方が協力に前向きな姿勢を示してくれたので、ひとまずペンディングして、しかるべき時期に再始動するつもりでいた。

  以前作成した活動報告書は、自分で言うのもなんだが、なかなか立派な出来栄えであり、あの報告書を上回るものはまだ私自身作れていないほどである(今後もそうかもしれない)。しかしながら、反省点も2つほどあった。

  1つは、私のワンマンで進めてしまったことである。当時から既に熱が冷め始めていたこともあったが、多くの人を巻き込みながら作成することが出来ず、結果的にかなり強引に作成した面が拭えなかった。もう1つは、現地の被災者の意向を汲めなかったことである。当時、被災者はそれどころではなかったため、ボランティア側の視点で作成せざるを得なかったのだが、これでは本来は片手落ちである。だから、どうせ作るなら、より多くの人の協力を得て、被災者とボランティアの思いをまとめられれば良いと考えていた。

2.挫折

  再始動したのは、震災から4年半後のことである。半年前と違って、思いのほか反応が鈍かったが、何とか一月後にはミーティングにこぎつけることができた。ところが、直前でキャンセルが相次ぎ、結局私を含めて4名しか集まらないという有様であった。しかも、前回のような大変なことはしたくない、自分の心の中にしまっておきたい、いきなり書けと言われても書けないのではないかなど、難色を示す意見が相次いだ。その場は何とか収めて、一月後ぐらいに意見を汲んだ全体構想を作成することにしたが、それからも、肝心の旧参加者名簿が紛失しているなど、4年半の歳月は我々の活動を窮地に追い込んでいった。

  こうした中、4年9ヵ月を迎えた日に、私は全体構想案を示した。諸事情が重なり、予定より一月遅れの発表となってしまったが、名簿の件はやむなくローラー作戦で集めることとし、具体的な構成については以下のような試案を示した。


第一部:震災ボランティアにとっての五年 ~あの時の思いと現実~
 今の自分に与えた影響、あの時の思いと現在のギャップ、五年前の回想など、震災ボランティアとして参加した人たちに思いの丈を述べてもらう。(『それぞれの探し物』第二部のイメージ)
第二部:被災者にとっての五年 ~被災から復興への道のり~
 五年経ったからこそ話せるエピソード、復興までの苦悩、ボランティアへの思いなどを、魚崎小被災者の有志に書いてもらう。(上記の被災者バージョン)
第三部:震災が遺したもの ~五年後の同窓会から~
 第一部・第二部をお互いそれぞれ(逆の立場の方を)事前に読んだ上で、2000/1/17あたりに魚崎で(?)座談会を開き、5年前の出来事から現在の思いまで、ざっくばらんに語り合ってもらう。
付録:高砂本部長講演録
 1995年7月に国立で行なわれた講演記録を載せる。

  だが、反応は皆無に等しかった。11月前半にミーティングを予定して、日程と意見を望んだのだが、10月中に返事が来たのはわずか1人であった。この間、不幸にもトルコ大地震と台湾大地震が発生し、震災の恐怖が再認識されたにもかかわらず、である。以前のように、たとえ反対意見であっても、反応があるということはそれなりに関心を持っている証なのだが、それがないのは非常に危険であった。だからと言って、私一人が引き受けて進めても、前回の轍を踏むことになり、「自己満足」で終わりかねない。悩みに悩んだ挙句、私は11月初めに、以下のような文面を投じた。

  …2週間あまり経っても返事を出さないということは、関心がまったくない(あるいは迷惑である)ということだと思います。ですので、これ以上無理して続けても仕方がないので、誠に勝手ながら、今回のプロジェクトは終了とさせていただきます。

  極論すれば、1人でも続けることは不可能ではないのですが、それでは意味がないし、4年半前の二の舞にもなりかねませんので、ニーズのないものは行なわないということで、これで最後といたします。

  個人的には残念ではありますが、5年も昔のことを蒸し返そうとした私が馬鹿でした。この時の記憶や思いは、皆さんそれぞれの心の奥底にしまっておいていただければ幸いです。…

  これが、私にできる精一杯のことであった。私自身は、究極的には、今回は震災について考えるきっかけを与えられれば、と思っていて、執筆協力者・参加者の多寡は2の次だったのだが、結果的にはそれすら適わなかったわけだ。これも、私には(最近流行りの)カリスマ性が皆無で、人を動かす力がないためである。我ながら、全く情けない次第だ。

  それに今回、皆がプロジェクトを引き受けたがらなかったのも、考えてみれば無理もない。この5年の間に、当時の主力であった学生は社会人になり、人によっては結婚したり子供を産んだりしている。そうした状況も勘案せずに、皆昔のままの思いを少なからず抱いていると期待した私は、なんと幼かったことだろうか。

  こうして、ファミリー国立で行いえた震災5周年プロジェクトは見事なまでに挫折し、幻と消えたのであった。

3.決着のつけ方

  だが、私自身はこれでは納得できなかった。このまま終わっては、ただ記憶が風化されていくばかりで、自分自身の忸怩たる思いは深まるばかりだ。何とかこの思いに決着をつけられないか…

  考えたのは、先の構成案にあった講演記録のテープ起こしをし、ホームページに掲載することでお茶を濁すというものだ。これなら年末に私が少々苦労すれば済むので、実現は可能である。しかし、これも録音していたDATテープが無音になってしまったとかで、適わぬものとなってしまった。

  こうなると、次は「連隊館」の内容拡充と広報を行うことぐらいしか手がなかった。そこで神戸大学図書館の震災文庫Kunitachi Town Guideにリンクをお願いするとともに、被災者に写真を提供いただいて、「震災フォトギャラリー」を作成することにした。

  しかし、それでも何か腑に落ちないものを感じていた。この程度で本当に良いのか、という思いが頭をよぎる…そして、自然と「神戸に行こう」という決心が固まった。はっきり言って自己満足に過ぎないかもしれないが、現地の空気の中で「震災5年」を感じることができれば、少しは溜飲も下がるのではないか、と。

  こうして、17日は有休を取ることにして、16日午後2時頃、私は自宅を後にして、単身かの地へと向かった。と言っても、いきなり神戸に向かったのではなく、まずは千葉の津田沼に向かった。実は以前、1月15~16日にかけての「防災フェアちば2000」というイベントの中で、連隊館にあるファミリー国立の報告書を使用したいという依頼があったのだ。

  その様子を確かめるべく、イトーヨーカドー津田沼店7階に行くと、各種行政団体、有名企業のブースに交じって、ファミリー国立の報告書も、第 II 部の感想文20人分がパネル展示されていた。よく見ると、ファミリーの展示の横で行われている景品付きクイズに子供たちが群がっている以外はそれほど盛況ではなかったが、思いのほか大きく取り上げられていたので、快くしていざ神戸に向かった。

Panel for Volunteer report
「防災フェアちば2000」に展示されたパネル

  新幹線を使っても、現地に着いたのは午後9時頃であった。辺りは冷たい雨が、まるで被災者の悲しみを現すように降っていた。宿の手配など全くしていなかったが(最悪徹夜も考えていた)、タウンページで調べたところ、幸いにも東灘区でほぼ唯一の宿泊施設「すみとも旅館」に泊めてもらうことができた。

  宿に着くと、喪服に身を包んだ宿主が現れたので、複雑な気持ちを抱かざるを得なかった(来ては見たものの、私のような人間が来るべき時ではなかったのではないか等)が、その後食事がてら魚崎周辺まで足を伸ばして散歩し(旅館は、魚崎駅の西隣の住吉駅近辺にある)、「命日」に備えたのであった。


後編へ)

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