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五輪館
毒語館個人的体験記

[1999.7]

個人的体験記

 

労働生活元年

  早いもので、私が会社の研修を終え、仕事場に配属されて丸1年が経った。この間、思いがけず様々なことがあり、いろいろな意味を含めて「勉強」することになったが、今回はそれを振りかえってみたいと思う。

1.配属

  配属されたのは、入社から3ヵ月近く経った、6月23日のことであった。前日まで研修を行なっていたため、特に意識することもなく配属の日を迎えることとなったが、これで定時勤務から解放されるのかと思うと、個人的には喜ばずにはいられなかった。配属先は無論「総合研究所」で、その中でも「地域計画研究室」というところであった。名称からすれば、私が大学院時代に行なっていた地域情報化なども生かせそうであり、特に不満のない状況のように思えた。

  しかし、いざ配属されてみると、地域計画と名乗りながら、実は交通関係の仕事が非常に多いところであった。聞くところによると、昔はそれこそ地方自治体の計画作りなどを行なっていたらしいが、最近は上司の影響で交通の仕事がほとんどになったという。事実、所内では陰ながら「交通計画研究室」と呼ばれており、私自身は交通についてほとんど無知の素人であったので、それを知った瞬間は、何だか詐欺に遭ったような気分になってしまった(実際に詐欺に遭ったことはないが)。

  一方、メンバーはなぜか入社3~4年目の若手研究員が多く(3年目でも、学部卒であれば学年は一緒)、年齢も近く親しみを抱きやすい環境であった。特に私の教育係でもあるH田氏は、こちらの仏頂面かつ文句言いにもめげず、最初から懇切丁寧に指導してくれ、不安は一気に解消されたといってよい。やや大袈裟に言えば、今だ辞めずに働けているのも、こうしたメンバーの方の支えによるところが大きい。

  ところで、仕事の方はというと、初日はとても新人の相手をしている暇はなかったようで、あまりすることもなく定時に帰れたが、翌日からはフレックスタイムを利用できる代わりに、終業時間も後ろにシフトしていくようになった(おそらく、配属の翌日からフレックスを活用したのは、同期で私ぐらいだろう)。それでも、周りの先輩方に比べれば断然楽であったと思う。特に地域計画研究室は夜になっても人が多く、夜9時以降残っていたら「みなし地域」だという冗談が実しやかに語られたり、室の歓送迎会も日程が合わなくてなかなか決められないという状態であった。

  配属3週間後にやっとこぎつけた若手による新人歓迎会でも、地域の人は時間になっても仕事が終わらず、なかなかかけつけられないでいた。待っている時、他の室の人が「地域だからなぁ…」と話すのを聞いて、私はブルーになり、他の同期は(別室配属なので)安堵するのであった(ちなみに、室での歓送迎会は配属から5週間後にようやく実現した)。

  そうこうするうちに、1つ、また1つとプロジェクトが増えていった。始めは所内プロジェクトだとか勉強とかに時間を割くことができた(それで鍛えていたつもりなのかもしれない…)が、徐々に対外向けの資料作成などにも本格的に関わるようになり、ついに7月30日には委員会デビューを果たした。この時には、名刺交換をした後、自分の担当部分をちょこっと説明し、また議事録作成等の裏方的な作業も行なった。思いのほか緊張することもなく終わってしまい、「鮮烈デビュー」とか「ほろ苦いデビュー」などといったマスコミが期待するようなドラマは全くなかった。

  その後夏休みシーズンに突入し、仕事もまた楽になったが、8月下旬からは、9月上旬の2つの委員会に向けた資料作成が本格化するなど、結構忙しくなった。それでも、私と他の人が抱えているプロジェクト数には差があるので、私が担当部分を終えても、担当者がその内容を確認するのに時間がかかり、その間動けず最後に駆け込み、というパターンもあったりして、よくよく考えれてみればやはり楽な方であったと思う。

  このように、配属からの3ヵ月は、いろいろ脅されていた割には楽に推移した。これが「嵐の前の静けさ」だろうとは、この時にはまだ少しも気づきはしなかったが…

2.地獄の始まり

  10月に入ると、それまでとは一転してかなり忙しくなっていった。これには、まずプロジェクトの数が多くなったこと(終わりかけの雑務も含めれば、5~6本は作業していただろう)と、作業の負荷がより重くなったことがある。特に後者については、分担が多くなるのは止むを得ないとしても、発表の前日夜に急に資料作成を命ぜられたり、夜間のミーティングが常態化するなどしていったことで、自分のペースで仕事、などという甘い考えは崩壊していった。これではアウトプットの質も低下するのに…などと思いながらも、新人だからあまり物申すこともできず、深夜までもくもくと働き続けた(この頃から同期のフレックス活用率も高まってきたが、私はさらにバージョンアップしていった)。

  おまけに、ある交通関係のプロジェクトで、企画書通りに統計解析を行なおうとしたところ、予期した結果を得られるどころか、何らの有益な結論も得られなかったため、苦悩の日々が続くこととなった。

  分析対象としたデータは某省庁から出されている全国的な交通調査なのだが、これがまた、見てみるとデータは条件・結果ともばらつきが多く、とてもなんらかの傾向が見られそうな代物ではなかった。しかも明らかな誤りも多く見られたので、私自身は(有意な分析は)無理だろうと申告した。だが、逆にやってもいないのになぜそんなことが言える、と叱責されてしまい(狭い範囲で試験分析は行なっていたが…)、徒労と苦痛に満ちた作業を続行する羽目に陥った。

  結局、私が予想していた通り有益な分析結果は得られず、休日・深夜を問わず働くだけの地獄の生活となり、11月に至っては最初の11.5日で残業120時間という、過労死者顔負けの過労働生活を送ることとなった。

  これがきっかけで、実質的なワークリーダーが体調を崩してしまい、私自身も相当こたえた。それでも成果が得られていなかったので、方向修正を直談判したのだが、なかなか聞き入れてもらえなかった(より正確には、当初企画通りに分析しても成果が得られなかったので、違う分析方法でとりあえずの資料を作成したのだが、これでは分析にならないと突き返され、再度様々な統計手法を駆使して分析を試みたが、結局駄目であった)。とはいえ、方法に固執して何も得られませんでした、では済まされないので、委員会前日に上司に楯突いて必死に説得し、どうにか折衷案的なものを認めてもらった。こうして徹夜で何とか資料を作成し、不十分ながらも委員会を乗り切ることができたのであった。

  その後、さすがに疲れて1.5日休みを取り、週明け月・火はシンポジウムに出てリフレッシュしたので、一週間近く職場を空けることとなった。これで個人的にはどうにか充電することができたが、この間私はもう辞めてしまった、などという噂が一部で出ていたらしい(もちろん冗談で)。

  それからは、大変そうだからということで新規プロジェクトに加わることはなく、逆に1人抜けた分を他でカバーできるほど余裕もないので私に任せる(=押し付ける)ということで、プロジェクトの数は他の人より圧倒的に少ない4つに落ち着いた。幸いにも、先の問題プロジェクトは12月の発表を回避できたので、年内は残業時間もぐっと減り、しばしの安息の日々が訪れていた。

  ところで、総研では、新人は半人前ということで「研究助手」扱いなのだが、そんな人間が1人で委員会の説明をするという事態になった。その日は午前中の委員会だったので、現地集合だったが、私が資料を持って到着してみると、1人は体調不良により欠席、もう1人は遅れるので説明を始めてくれ、というのだ。幸いにも私がほぼ全面的に作成した資料だったので良かったが、その日は結局40分程度1人で説明し、質疑に答えることとなった。下手をすれば信用問題にも関わることだが、こんな思い切ったことを新人にさせるとは、なんて懐の深い会社なんだ、と考えられなくはない…のかもしれない。

3.新年の悪夢

  無事に年が明け、1999年に入ったが、ここで私は一念発起して、自転車通勤を始めることにした。直接のきっかけは、定期が現物支給から給与支給になったことであるが、その他にも、最も忙しいと言われる年度末に備えて、終電を気にしなくても済むように、という考えもあった。つまり、さらなる重労働は覚悟していたのである。

  ところが、新年の勤務は思いがけない形で幕が開けた。なんと、初日に上司が頭を負傷して重態だという知らせが入ったのだ。聞けば、お子さんと遊んでいて後頭部を打ち、すぐに手術を行なったのだと言う。幸い命に別状はなかったが、これでトップが倒れ、No.2の方は例の件で体調がまだ芳しくない状態であり、結果的に若手にしわ寄せが行くこととなった。

  個人的には、例のプロジェクトが白紙になってしまい心配だった(同時に、この時点で既に赤字だということにも気づいた)が、代役としてついたのが同じ専門のさらに上の方だったので、新たな視点を加えた形で方向転換もスムーズに進み、一時の出口なき迷路からは脱することができた。

  というわけで、普段の業務に加えて様々な雑務も増え、多忙を極めたが、自転車通勤が功を奏してか、体調は絶好調であった。一時は定時から1時間以上遅れていた出社時間も、寒さにもかかわらず徐々に回復し、ついには配属以来と思われる定時前出社も実現した。

  しかし、無理をすると後でたたるもので、残業が継続するにつれて徐々に出社時間も遅くなり、上司が復帰した2月上旬には、元のさやにおさまってしまった(ちなみに後世から見れば、上司と出社時間の間に関係があるように見えてしまうかもしれないが、それは因果ではない)。

  さて、年度末ということで、これから徐々に忙しくなっていき、3月には地獄を見ることになるだろう、と予言されていた。それを自分自身に照らしてみると、あの11月の地獄は序の口に過ぎなくて、これから3月までにさらにひどい事態になるのだ、と考えていた。事実、先のようなアクシデントもあったし、周りも徐々に忙しくなっていたから、そうなるのかと心配していた。あれ以上の苦しみなんて考えられないのに、と…

  しかし蓋を開けてみると、私の場合はプロジェクト数が少なく、しかも3月一杯で終了するのが1つしかなかったため、普通とはむしろ逆で、段々楽な方向にシフトしていた(なお、なぜか年度内は5週間忙しい波が来ると1週間楽な波になり、また次の忙しい波、という循環になっていた)。事実、月別残業時間を見ると、11月の130時間がトップで、1月の110時間、2月の90時間、3月の60時間という低減傾向であった。そのため、3月は皆が忙しいのを尻目に早く帰ることができ、何か拍子抜けしてしまった(その分、ホームページの更新は頻繁に行なえたが)。

  プロジェクトの方も比較的快調に進み、例の問題プロジェクトも、懸案事項は何とかクリアし、次の段階に進むことができた。室自体の問題も、アルバイトを急募することでどうにか対処して、「第三の被害者」を出さずに済んだ。2~3月には2人も復帰したので、最悪の事態はほぼ解消されたと言ってよいであろう。

  こうして、「地獄の(はずだった)年度末」は難なくこなすことができたのであった。

4.改組

  ところで、昨年6月に社長が代わり、天下り人事となったのだが、その鶴の一声を受けて、新年度から新しい組織体制に切り替わることとなった。その主眼は「大括りにすること」。部門間で横断的な対応ができるように、とのことらしいが、総合研究所もその例外ではなく、いろいろと検討された結果、これまで6つの室に分かれていたのが、2つの「センター」に集約されることになったのである。

  これまでは、5~6名の小さな集団の中で、まるで村社会のように1人の「ボス」の意向に従ってきたのだが、今回の組織の拡大により、まるで都市社会のように、幅広い選択肢の中から自分の好みで(ある程度までは)選考できるようになったのである。しかも、引き合い案件があれば、一部の人間で勝手にやってしまうのではなく、原則として公募を行なうというのだ。私は、これまで「交通」の檻に閉じ込められ、自分の得意分野を生かすことができなかったから、この期を逃すわけにはいかなかった。以後、自分の琴線に触れるプロジェクトがあれば、積極的にアピールしていったのは言うまでもない。

  こうして、ある意味戦略的に人月を埋めていったため、しかも他の研究員が忙しさにかまけてほとんど立候補しなかったため、自分の関心のあるプロジェクトに多く参加し、関心のない分野にはあまり巻き込まれずに済むようになった。ただ、6月の時点で既に残業折込済の作業量が割り当てられているのは思わぬ誤算であったが(それゆえ、これからはある程度慎重にならざるを得ない)。

  ところで、新年度初の任務は、4月1日の「お花見」であった。花見と言えば、入社後すぐに行なわれた時に、同期3人でつるんで欠席した曰く付きのイベントである。例年2年目の人間が主催するのだが、私は家が近いことから、場所取り役を命じられた。個人的にはこういうイベントはあまり好きではないが、任されたからには徹底的にこだわるのが流儀なので、前日「室解散飲み会」があったにもかかわらず、帰りの足で場所取りの偵察を行ない、当日は5時半起きで現地に向かった。場所は新宿中央公園だったので、家から20分ほどで到着するのだが、なぜこんな早い時間にしたかというと、今年はこの日ぐらいしか花見に適した日がないという予報で、込み合うだろうと予想したためである。先輩などには「昼頃行っても大丈夫だろう」と言われたが、とてもそんな気がしなかったのである。

  そしていざ着いてみると、ホームレスの人たちを除けば、さすがにまだ場所取り陣はいなかったので、最適と思われる場所にシートを置き、ひたすら待った。おかげで6時半のおじさん・おばさんによる集団ラジオ体操が見られた(数えたら40人ぐらいはいた)のだが、その頃から徐々に場所取りが増え、8時頃には主要なポイントは押さえられてしまった(予想的中!)。

  交代要員が来るまで暇だった私は、持ってきたVAIOで桜の写真を撮ってメンバーに送信したのだが、これが業務行為として適切かは意見の分かれるところであった(しかもエイプリルフールということで、1枚はホームレスのテントを撮って「徹夜組みがこんなに!」などと書いたら、同期のリアクション王がしごく受けた)。これが功を奏してかは定かでないが、少なくとも昨年よりは圧倒的に人が多く集まり、大盛況のうちに無事任務を完遂することができたのであった。

  ところで、たまたま同日には、会社側から突如として「フレックス自粛」の通達もあった。一瞬エイプリルフールの冗談かと思ったが、聞くところによると、最近勤務態度が悪いとか何だかで、「お上」が決めたそうである(しかし、制度がある以上、義務づけはできない)。あまりに「寝耳に水」だったので、こんな理不尽なことは許されないと思った私は、来年から年俸制を予定しているのに時間管理を強化されてはたまらないとばかりに、社員会(労働組合の代わりみたいなもの)に対して意見書を長々と書き連ねて送った。それがどうなったのか、いまもってわからないというのは、何とも由々しき事態である。

  その後は、しばらく昨年度分の残務作業を行ないながら、GW後の席替え(体制が変わったため)などを無難にこなしていったが、本来楽になるはずの5月以降も、昨年度の残りと新年度の立ち上げが重なって、なかなか暇にならないでいた。

  そんな時、昨年より一月も早く新人が配属され、しかもご丁寧に総研用の研修まで用意されていたのである。これで、会社から期待されているものがいかに違うか、悟らざるを得なかった。所詮私は…などと考えてみたいところであるが、業務に忙殺され、なかなか考える暇がない。これ(考える暇がないこと)は別にこの会社だけの問題ではなく、シンクタンク業界の、また日本の大半の会社の問題なのかもしれない(余談だが、先日大学院時代に知り合い今は同じシンクタンク業界に勤めている4人で「同業種交流会」を行なったが、出てくるのは、どこも暇がなく深夜遅くまで働いている実態ばかりであり、しかも私はその後会社に戻って朝の5時まで作業したので、楽しくはあったが同時にへこむ思いもあった)。

5.かわいくない子には…

  こうして、配属から丸1年が経過したが、夏休みに向けて、仕事は楽になりそうな気配がありそうで、実際にはまだなっていない。先日抱えているプロジェクト数を数えてみたら、10本以上になっており、最近では1日4~5本の仕事をこなさなければならない状態に陥っている。これでは、アウトプットばかりでインプットする時間がないので、知識労働としては由々しき状態である。

  また、これまでは完全なる下っ端であったのが、徐々に重要な任務を担わされるようにもなってきている。例えば、所内のコンピュータ環境を決める委員に任命されたり、総研のホームページ作りを行なったり、また企画書書きなども始めており、自分の意向とは関係なく、徐々に中枢部分に飲み込まれていっている感覚である(まだ本当の中枢には遠いが)。

  その一方で、仕事ではなかなか遠くに旅をさせてもらえない。同期の2人は、日本の各地に出張したり、海外調査に出かけたりしているが、私は丸1年東京都からも出してもらえなかったのだ! よく「かわいい子には旅をさせよ」と言うから、さしずめ私は「かわいくない子には旅をさせるな」ということで、危険人物は檻に囲っておこうということなのかもしれない(ところが、先日事故により急遽仙台まで出張することになったのだから、世の中捨てたものではない。後1週間遅れていたら新人の1人に先を越されていたのだ)。

  とはいえ、今や完全なる2年目となり、もはや甘えは許されなくなった。最近では、何かあっても「11月の時の顔に比べればまだ余裕がある」とか、「花見の時の手際の良さはどこへ行った」などと言われ、閉口してしまうこともあるが、私も今月で26歳になるので、20代後半、また初心に返って、しばらくは頑張っていきたいと思っている。

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