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五輪館
毒語館個人的体験記

[1998.2]

個人的体験記

最初で最後の(?)オリンピック観戦

序.戦略的中!が…

  私は案外スポーツ好きなのだが、ウインタースポーツはスキーとスケートが少々できる程度で、それほど頻繁には行なっていない。しかし、考えてみれば冬季競技は真似できないものが多いから、仕方ないのかもしれない。ジャンプなんて恐ろしくてとてもできないし、フィギュアスケートなんかしたら三半規管がいかれてしまいそうだ。ましてエアリアルやモーグルでもしようものなら、体中粉々になりかねない。そんな有様だから、基本的には観戦モードに入ってしまうが、そこに今世紀最後の冬季五輪、長野オリンピックがやってきたわけだ。

  実は、私は大学院進学の際、これでちょうど長野オリンピックを見に行くことができるようになったと考えていた。もちろん、これが進学の主目的ではなかったが、社会人になればそう簡単に出かけられなくなりそうだし、順調にいけばちょうど卒業間近で、時間に余裕があると思われた。プロ野球やJリーグならいざ知らず、オリンピックは4年に一度の世界的なイベントだ。しかも長野といえば東京から数時間で行けるのだから、この期を逃すわけにはいかなかった。こうして、いつしかオリンピックを自分の目で味わうことを夢見ながら、月日を過ごしていたのであった。

  だが、チケットの発売を知ったのは、わずか数日前のことであった。5月末の新聞で知ったのだが、あまりに寝耳に水だったので、一瞬諦めようかとも考えた。が、すぐさま思い返し、情報誌を求めて書店に向かった。幸いにも『ぴあ』に特集があったので購入し、どの種目にするかじっくり考えることにした。

  特集には、主な競技の紹介と競技日程・チケット情報が載っていた。実はこれ以前に予約販売を行なっていたらしく、その時の倍率と空席状況が示されていたが、ここで意外な事実に気がついた。見ると、フィギュアスケートが81.9倍、開会式が24.2倍、スピードスケート20.2倍など、人気種目は軒並み高倍率なのに、ノルディック複合は2.9倍とかなり低くなっていた(これより低いのはリュージュとバイアスロン、クロスカントリーだけ)。荻原兄弟のメダルや団体3連覇がかかっているにもかかわらず、あまり人気がないのだ。

  そこで、複合に狙いを定めるとともに、個人戦が金・土なのに対し、団体戦は平日だったので、まずはオリンピック史上初の3連覇がかかる団体戦のジャンプの獲得を目指すことにした。

  発売日当日は、徹夜も考えたが、睡魔には勝てず、結局発売時間直前の9時50分頃に藤沢駅に到着した。とりあえずJRのみどりの窓口方面に行ってみると、既に長蛇の列ができていたので諦め、すぐさまJTBへと向かった。すると、あまり目立たないところにあるせいか、十数人しか並んでいなかった。あまりの少なさに一瞬間違ったかと思ったが、まもなく店員が現われ、希望の種目・日時等を書く紙を渡された。そこには1人4枚までと制限されていたので、一か八か4枚希望とし、運を天に任せた。

  しばらくして手続きがスタートしたが、どこの支店もいっせいに申し込みをするため、なかなか繋がらない。やがて結果が出るものの、徹夜組でさえチケットを入手できず、不満たらたらで帰っていった。10人程終わってほとんど誰もチケットを入手できずに帰るのを見て、さすがに私も諦めムードで、結果が出るのだけ待った。

  結局1時間くらい経ったろうか、名前を呼ばれ、カウンターに出向くと、首尾良くチケットを取れたという。一瞬信じられなかったが、他の人が超人気種目を欲張る中、複合という「穴」に狙いを定めた戦略が見事的中したわけである。

  こうして、他の人が「空いている競技はないか」とパニックに陥る中、代金を支払い、気分良く店を後にした。そして、ジャンプが取れればクロカンも取れるだろうという読みから、ただちに駅周辺の日本旅行に向かい、こちらも見事にチケットを確保できたのであった。

  その後、橋本氏をはじめ、大学院でお世話になっている知人3名に声をかけ、4名の参加者を確保するとともに、当人たちの希望により、卒業旅行も兼ねてより多くの人が集まれるようにと、8名用程度の貸別荘を探すこととなった。合意形成に手間取ったため、この時既に秋で、新聞には宿に空きがないと書かれ、JTBでも既にペンション等を含めて白馬は満員だと言われてちょっと焦ったが、幸いにも別の代理店でその後申込受付のあった貸別荘を見事確保でき、万全の体制が整った…かにみえた。

  だが、ここから状況は一変する。

  まず1人が、その時期忙しいからという理由でキャンセルを申し出てきた。今回キャンセルの際はその分を「自己責任」で賄うことにしていたので、彼は代わりに鈴木氏という人物を連れてきたので問題なかったが、それからは皆修論に追われたため、残り4名の勧誘は全く捗らなかった。しかも、修論が終わっても新たなメンバー希望者は現われないうえに、もう1名が行けなくなったと連絡してきたのである。こちらとしては、こういう事態を防ぐために半年も前から声をかけていたのに…と思ってしまうが、そんなことを言っても後の祭りだ。

  仕方なく関係各方面に声をかけてみたものの、時期が迫っていただけに、鈴木氏の「ベストフレンド」を確保するのが精一杯で、良い返事を得ることはできなかった(おまけに私はインフルエンザにかかって1週間寝込み、踏んだり蹴ったりであった)。

  しかし、この苦境を脱することができたのは、他ならぬ日本選手の活躍であった。

  既に私は、オリンピック開会式の日に修了最終試験を終え、その後テレビ観戦で盛り上がりながらも、もう4名で行く覚悟を決めていたが、日本選手のメダルラッシュに触発された人たちから、出発数日前になって「行きたい」という連絡が入った。こちらとしては、拒む理由などないし、鈴木氏の彼女が風邪を引いたとの報を聞いたばかりだったので、大歓迎であった。これで、この時点では男性3名女性2名ということだったので、何とかチケットを1枚購入しようと奔走したが報われず、傷心の中出発の準備をしたのであった。

1.吹雪との闘い

  こうしたすったもんだの末、2月17日、予定通り出発することとなった。ただ、女性陣は都合により翌日出発するとのことだったので、まずは橋本氏の車で男3人の旅路となった。

  ちょうどこの日は、最も金メダルが期待できるジャンプ団体戦が行なわれることとなっていた。本当はテレビで見たかったが、時間の関係上やむなく車内のラジオで楽しむことにした。

  この日、東京は抜けるような青空であったが、実況によれば白馬は吹雪ということで、雪道初体験のドライバーは既に緊張気味であった。出だし好調のジャンプ陣に喜んだのもつかの間、渋滞の246・16号線にはまり出した頃から、原田の失速ジャンプなど、雲行きが怪しくなってきた(個人的には、せめて100mは飛んでくれと思っていたが…)。結局1回目を終わって4位と、予想以上に苦戦しながら、こちらも中央道を目指して少しずつ進んだ。

  やがて八王子バイパスに入ると、中断されていた2回目がスタートし、鈴木氏と待ち合わせていた京王線北野駅に着いた時には、ちょうど岡部の大ジャンプが飛び出し、車内の盛り上がりは最高潮に達した。そして、八王子インター目前で原田が1回目を帳消しにする大ジャンプをし、勝利はほぼ確実となった(それにしても、ジャンプ後の原田のコメントは何を言っているのか全くわからない状態で、テレビで見ていればもらい泣きするのかもしれないが、ラジオで聞いているとあまりに意味不明で笑いになってしまった)。

  こうして、クライマックスは高速に入り、東京都を抜ける手前で迎えることとなった。船木のジャンプ後、金メダルが決まると3人でがっちりと握手を交し、選手でも何でもないのに喜びを分かち合った。最高のスタートであった。

  その後、談合坂で昼食を取り、ダイジェストも見たりして、今最も熱い地・白馬へと向かった。しかし、ちょうど長野県に入る頃から吹雪となった。手荒い歓迎だ。しばらくは降ったり止んだりであったが、高速を降りてしばらくすると、かなりの雪が降り始めた。おそらくジャンプを見た帰りであろう列をなす対向車には、大雪が降り積もっていた。

  それでも大町あたりまでは問題なく進んだが、次第に道路もアイスバーン状態となり、ノーマルタイヤではかなり危険な状態となった。そこで、チェーンを着ける場所を探しながら進んでいると、前の車が右折するため一旦停止したので、我々も止まった。が、後ろから…!ダンプカーに衝突されてしまったのだ。スピードはそれほど出ていなかったものの、後ろのドアはへこまされ、開かなくなってしまった。幸いケガ人はなく、車も動いたので安堵したが、いきなり災難に遭ってしまったのである。

  仕方なくその場でチェーンの装着を試みるが、吹雪の中で初めてのチェーンがけとあって、なかなか捗らない。ぶつけた方は先に白馬署に向かったが、結局それから相当遅れての再出発となった。途中パッシングを避けるつもりが1回転してしまったりと、雪道の怖さを思い知らされたが、何とか白馬までたどり着き、警察で事情聴取を受けた。

  こうして、別荘のチェックインは終了時間ちょうどの5時半になってしまったが、到着すると、別荘の綺麗さ(ex.初めての床暖房!)に感嘆するとともに、無事到着した安堵感に包まれた。しかし食料がないので買い出しに出かけると、そこではロシアチームや大会スタッフ・ボランティアらが買い物をしており、いやが上にも気分が盛り上がってきた。

2.青天の霹靂

  翌18日は、うって変わって晴天に恵まれた。この日は1日スキーを予定していたので、絶好の天気であった。

  そこでさっそく朝食をこしらえ、9時過ぎには別荘を発った。とりあえず近くのスキー場ということで、白馬五竜・47スキー場に向かったが、レンタルスキー代とリフト代でいきなり1万円の出費であった。覚悟していたとはいえ、かなり痛い…

  ともあれ、私は3年振りのスキーであったので、まずは感覚を思い出すことに気を配った。少し滑ると、ぎこちないながらも何となく思い出してきて、数回滑ればだいたいの感覚は戻ってきた。しかし、中には思い出せない人もいる。鈴木氏はスキー検定3級と豪語していたにもかかわらず、蓋を開けてみるとボーゲンで緩斜面を滑るのにも苦労していた。9年振りというから仕方ないのかもしれないが、ショック療法で思い出すだろうとばかりに上の方まで上がり、中級者コースを滑ってみると、思い出すどころか、恐怖心からますます腰がひけ、転倒の嵐となってしまった。これで体力を使い果たした鈴木氏は、何とか下山して食事にありつくものの、その後は足と腕がいうことをきかず、緩斜面ですらコケまくることとなり、単独行動を取ることになってしまった。

  それからは、私と橋本氏で中級者コースを中心に滑ることにした。しばらく下の方で滑った後、ゴンドラ等で頂上まで上がり、まずは47スキー場方面の一番下まで一気に滑り降りる。上の方に来ると、さすがに雪質がかなり良いが、この日は何と言っても景色が素晴らしかった。長野の山々の大パノラマを見ながら滑るのは、やはり気分が良い。途中正面に白馬の街並みや山々を見ながら滑るところなどは、景色の素晴らしさを惜しむように滑り降りていった。

  やがてアイスバーン地帯を抜けると、一番下にたどり着いた。これだけでもかなりの距離を滑ったことになるが、今度はまた頂上まで登り、五竜側も一気に下ることにした。相変わらずの好天で、景色を見ているだけでも気持良かったが、さすがに2回目の「下山」ともなると、院時代に衰えた体力では限界であった。途中からは先ほど3人で通ったコースなのに、急に足の踏ん張りが効かなくなり、2人ともコケるようになった。こうして3人とも体力を使い果たした頃、タイミングよく女性陣を迎えにいく時間となったので、ひとまず別荘に引き返すこととなった。

  別荘に戻ってからは、橋本氏だけが迎えにいき、2人で留守番をした。やがて(前日1人参加となったので)女性3名が到着。そのうち2名は院の同期である。これで人数的にはバランスがとれたわけだ。しかし、男どもは既に疲れきっていて覇気がなかったし、女性陣も長旅でお疲れのようであった。こうして、まったりした時間がしばらく続いた。

  そんな時、思いがけないニュースが舞い込んできた。なんと複合の後半、クロカンのチケットがまだ余っているというのだ。6名いて4枚しかチケットがないため、どうしたものかと思案していたが、これなら最後は皆で応援できる模様だ。

  そこでチケットの入手先を調べ、安らかな眠りについていたドライバーを起こし、いざ八方へと向かった。この直前に、この日のジャンプ公式練習で古川選手が転倒したという報があり、こちらも驚きであったが、ともかく無事チケットを入手すべく行動を起こした(この時幹線道路に雪が残っていなかったのでチェーンを外したのだが、八方のあたりはまだ道に雪があったので、難渋することとなった)。そして土産屋の前に車を止め、チケットを2枚獲得。帰り道では雪深き道に迷いこみ、立ち往生しそうになったものの、何とか無事帰還した。明日はいよいよ複合前半・ジャンプの観戦である。

3.一喜一憂

  この日は午前5時の出発を予定していた。というのも、報道によれば開場時間の7時には大勢観客が来ているとのことだったし、白馬駅発のシャトルバスが6時から運行とされていたからだ。せっかく白馬に泊まっているのに、東京から直接来た人に遅れをとるのはしゃくなので、せめてそれよりは早く行こうというわけである。しかも近くに駐車場はなく、タクシーもつかまらなかったので、約4kmの道のりを歩いていかなければならなかった。

  私はいつの間にか起床係になってしまったので、一時は徹夜して寝過ごさないようにしようと考えていた。しかし1人で音も立てずに数時間を過ごすのはさすがに辛かったので、途中1時間半ほど仮眠をとり、4時過ぎに起こしにかかった。さすがに皆眠そうで、しばらくは動きが緩慢であったが、ふと外を見ると、既に白馬に向かって車が頻繁に走っていた。これは大会スタッフやボランティアなのか、それとも観客なのかは判然としなかったが、ともかくこの時私は既に準備万端だったので、他の人の準備が整うのを待った。

  当初予定していたメンバーは、橋本氏が体調を崩してダウンしていたことと、鈴木氏がものすごい筋肉痛で動くのも容易でなかったことから、私と女性陣3名という組み合わせであった。女性の扱いに全く慣れていない私には少々不安であったが、しばらくすると1人が、体の調子が悪いから遅れていく、と申し出てきた。4万の観衆の中を別行動すれば会うのは容易ではないと想像できたが、仕方がないので、チケットを1枚置いて出発することにした。すると、おもむろに橋本氏が起き上がり、事情を話すと「行く」と言い出してきた。こうして、前日買っておいた日章旗とともに、午前5時過ぎ、4名はジャンプ台に向けて歩き出した。

  途中の道では、さすがに同じように歩いている人は見かけなかったが、所々ボランティアや警備の人が立っていた。「おはようございます」などと声を掛け合いながら進むと、まもなくライトアップされたジャンプ台が見えてきた。それを横に見ながら進むと、近くになってようやく人や車の動きが激しくなり、気がつくと門のあたりまで来ていた。6時前に到着したにもかかわらず、既に2~300人が列をなしているではないか(最前線には選手の地元応援団らしき人たちが、のぼりを立てて待ち構えていた)。

  それからは、カエル等に変装した観客を見ながら時間を潰さざるを得なかったが、夜が明けるにつれ、人もどんどん集まってきた。そして、午前7時、いよいよ開場となったが、我々の正面のゲートあたりは金属探知機によるチェックがスムースにいかず、しかも押し合うので時間を要し、周りに遅れをとることとなった。それでもロスを取り返すべく、入場後4人で階段等を走りきり、なんとかジャンプ台ほぼ正面3~4列目を確保したのであった(この走りこみで、ももの筋肉が張った)。

  その後続々と観客が入ってきたが、しばらくすると、うるさいほどのBGMとともに、DJによる「盛り上げ」が始まった。この日はオリンピック最後の白馬ジャンプ台ということもあり、また晴天に恵まれたこともあって、観客のボルテージも最初から上がりっぱなしであった。スタッフがコース整備を進める中、競技の説明から始まり、やがてスノーレッツと小学生が出てきて「WAになって踊ろう」を歌い出すと、観客もノリノリで、早くもエンジン全開となった。圧巻は4万人によるウェーブで、途中で途切れることなく続き、競技開始前だというのに盛り上がりは最高潮に達した。DJが、これまでで一番の盛り上がりだ、と言っていたのは「作戦」かとも思ったが、後でテレビを見たら、アナウンサーが「これまでで一番の観衆だったと思います」と言っていたから、あながち嘘でもなかったようである。

  そして、まもなくして、8時頃よりテストジャンプが始まった。初めて生で見たが、やはりジャンプは見応えがある。既にこの時から、飛ぶ度にチアホーンが鳴り響いていた(私も思いっきり吹いていた)が、30人程飛ぶと、いよいよ出場選手によるトライアルジャンプとなった。11ヵ国×4名が飛ぶが、さすがに日本選手の番ともなると、我々の前はいくつもの旗で見にくくなるほどで、盛り上がりも半端ではなかった。特にエースの荻原健司は、最長不倒の96mを飛び、観衆を一層盛り上げた(ずっと立ちっぱなしということもあって、この時点でかなり体力を消耗していたが、そんなことは言っていられない状態であった)。

Ski Jumping
ノルディック複合・ジャンプ会場

  こうして、9時30分、ついに本番がスタートした。まず切り込み隊長・森が、いきなりK点越えのジャンプを見せ、トップに肉薄する。続く代役・富井もまずまずのジャンプを見せるが、平均点で順位が表示されるため、ここで順位を下げ、既に一体となって盛り上がる観衆も少しガッカリ。しかし次晴がなかなかのジャンプを見せ、外国勢の失速も手伝って、次第に順位を上げてトップに踊り出た。この頃からは観客も順位を見ながら一喜一憂していたのだが、荻原健司も無難なジャンプをし、結局最後に金メダリスト・ビークの大ジャンプでかわされたものの、1回目を終わって僅差の2位につけ、順調な滑り出しを見せた。

  しかし、テストジャンプを終え、2回目のジャンプになると、最初の2人があまり伸びず、逆に外国勢が距離を延ばしてきたので、順位をやや落とすこととなった。こうなったら荻原兄弟の大ジャンプに期待するより他になかったが、次晴も、観衆が期待するK点には届かない。そんなとき、4人目に入る前にコース整備で一時中断となると、ラージヒル側からウェーブが始まった。満員となった4万の観衆が、健司の大ジャンプに期待して始めたと言っても過言ではない。結局競技再開後しばらくまで、2往復半ほどで波は収まったが、その願いも通じず、健司のジャンプは思いのほか伸びずに(私はこの時しゃがみこんでしまった)、最終的には5位に終わった。

  その後、再びウェーブを行ない、「WAになって踊ろう」を歌って踊って選手の健闘を賛えたが、何か溜飲が下がらぬ思いであった。観戦自体は非常に楽しかったが、何とも言えない後味の悪さが残ったのだ。しかし、上位とはそれほど離されていなかったので、明日の巻き返しに期待し、大混雑に伴い「牛歩」で会場を後にした。

  その後昼食にありつき、別荘に戻ったが、8時間立ちっぱなしで、さすがに疲れがひどかった。そこで皆が八方尾根でスキーをしに行く中、私は1人留守番となった。シャワーを浴び、しばらくするとタイムスリップしていたが、その後は車の置き場所など、明日への準備を着々と練ったのであった。

4.疲労困憊

  翌20日は、9時から女子のクロカン30kmがあるものの、複合は午後1時開始だったので、皆疲れきっていることだし、出発を8時過ぎ(到着9時頃)と考えていた。だが、昨夜の時点で2名が体調を崩していたので、予定通りに事は運ばなかった。

  私は6時半頃、話し声を聞いて起き上がった。見ると女性2人が話をしていたが、1人はやはり体調が悪いという。幸いにも鈴木氏が各種薬を持ってきていたので、橋本氏ともどもそれを服用し、再び眠りについた。ただ、私を含む残り4名も既に過労気味で、朝食を簡単に作ったものの、食卓に活気はなく、まるで敬虔なクリスチャンのようであった。鈴木氏などは相変わらずひどい筋肉痛で、階段の上り下りに呻き声をあげる有様だった。

  それでも何とかチェックアウトの準備を進め、第1陣が出発したのは9時前であった。ドライバーがダウンしていたので、私が運転する羽目となったが、10分ほど走り、4名を会場近く(と言っても徒歩15分くらいの所までしか一般車は入れない)のコンビニまで送った。

  そして再び別荘に引き返すと、まだ橋本氏は気持ち良さそうに寝ていたので放っておき、ゴミの片付けや部屋の整理など、チェックアウトの準備を進めていった。やがて携帯電話で橋本氏が起きると、とりあえずチェックアウトの準備だけ進めさせ、何とかリミットの10時ぎりぎりに退出することができた。そして、車を近くの駐車場に置かせてもらい、後発の2人も会場に向かうこととなった。

  しかし、昨夜調べたところだと、電車は行ってしまったばかりで、次は2時間後という状況であった。仕方なくタクシーを呼び、いざ会場に向かったが、さすがにこの時間になると、複合の応援に来た人たちで会場の外は賑わっていた。厳重なボディチェックの後、中に入ると、まだ女子クロカンの最中であったが、携帯で連絡を取り合いながら、先発隊を探した。

  どういうわけか2手に分かれて場所取りをしていたので、とりあえずゴールに近い方を探したところ、橋本氏のロシアジャンパー(エリツィン寄贈)に気付いたロシア人がいきなり声をかけてきた。だが、全く意味不明であったので、苦笑するより他になかった(おそらく「これはロシアのジャンパーじゃないか。良いやつだよ。あったかいだろう」などと話していたのだろう…)。その後すぐに2人を発見したものの、あたりは盛り上がっているがあまり近くで見られない状況だったので、反対側のスタート地点にいる組の方に向かうことにした。そして相変わらずの牛歩の末、6名が合流した。

  この日はあいにくの雨であったが、観客は時間が経つにつれ増えていった。しかし、女子クロカンが終わってしばらくしても、DJは盛り上げるタイミングをうまく図れず、(約2万の)観衆が分散していることも手伝って、盛り上がりに欠けていた。開始30分ほど前になってウェーブを試みるも、DJの意向は反映されず、ウェーブも長くは続かなかった。特に我々の周りにいる人たちはミーハーな写真マニアが多くて、日本選手が通ると写真を撮ったり、有名なキャスターが通ると声をかけたりはするものの、「WAになって踊ろう」は聞いているだけだし、チアホーンを吹くと白い目で見るような有様であった。一部の熱狂的な盛り上がりを除けば、昨日とはうって変わって静かな雰囲気でスタート直前を迎えた。

Cross-country Skiing
ノルディック複合・距離会場

  テスト走行者が集団で出ていってまもなく、天皇・皇后が見守る中、1位のフィンランドから順にスタートを切っていった。日本の1番手・次晴は21秒遅れのスタートだったが、すぐに4位に浮上し、時同じくして前を行く3位の選手が下りで転倒したので、冷めていた観衆も、メダルの可能性に期待を膨らませて、ボルテージが急上昇した。私なども、モニターに歓声を送るむなしさを感じつつ、精一杯の応援を繰り広げた。

  やがて1番手が帰って来ると、王者ノルウェーが先頭で引き継ぎ、日本も最後オーストリアを交して3位に上がった。続く2番手・森も快調な滑りを見せ、ペースの上がらないフィンランドを尻目に差を詰め、最後はほぼ追い付きくまでに迫った。そして3番手・富井とフィンランドが飛ばしてデッドヒートを繰り広げる中、ついに2位にまで上がり、観客は大いに盛り上がった。しかし、ここから後ろのフランスに追い付かれ、さらに残り1kmで飛ばし過ぎたツケで「ガス欠」状態となり、失速してしまった。どうした富井、距離が得意なんじゃないのか(報道より)、と心の中で叫ぶものの、結局アンカーの荻原健司に渡った時には6位にまで順位を下げ、メダルは絶望的となってしまった。

  それでも健司が力走して1つ順位を上げ、最終的には順位は変わらず5位に終わった。トップのノルウェーはぶっちぎりの強さで、4年前のリレハンメル(ノルウェー)の借りをこの長野で返されたようであった。

  結局残念な結果に終わったが、今期の不調ぶりに比して大いに健闘したと、選手たちに賛辞を贈った。そして相も変わらぬ牛歩の中、天皇・皇后を間近で見つつ(芸能人のようなフィーバーだった)、非常にゆっくりと会場を去った。

  外に出てからは、大混雑の中、白馬駅行のシャトルバスに乗ることにした。後になって近くの松川駐車場行の券を渡されていたのに気付き多少困惑したが、運転手さんの好意で無事白馬駅まで送ってもらい、すぐさまタクシーで車を置いておいた場所まで戻って、また白馬駅まで引き返した。そして荷物を渡し、電車で帰る女性陣と別れたのは4時半頃のことであった。

  その後、土産等をあさり、5時頃帰途についたが、この頃になるとさすがに疲れがピークで、皆壊れ始めていた。鈴木氏などは、私が「(ビデオカメラを)固いものに当たらないように(置いて)ね」と言ったのを、どういうわけか「コカコーラ?!」と問い返したり、橋本氏もいつも以上にくだらないダジャレを連発し、壊れかけた私は不覚にも笑ってしまっていた。また、道中は大雨だったが、私はワイパーの動きが「WAになって踊ろう」の動きに見える「オリンピック病」にかかってしまい、それに乗じて橋本氏が歌い出す始末であった。

  そんなこんなで何とか東京に帰還したが、橋本氏のダジャレではなく、某ホテルの前に掲げてあった長野オリンピックのエンブレムを見てエピローグを迎えることとなったのは、せめてもの救いであった。その後、家に着いたら即座に眠りについたのは言うまでもない。

終.LIVEの醍醐味

  こうして、かなりハードなオリンピック観戦ツアーは終了した。今回、結果だけ見れば、オリンピック3連覇はならず5位と、かなり残念であったが、何度も楽しませてもらったことは確かである。特に実感したのは、やはり生で見るのとテレビで見るのとでは大違いだということだ。競技前や競技後は言うに及ばず、競技中の盛り上がりも、やはり実際に自分の目と耳で体感しないとわからない。ジャンプの際の観客の「一体感」などで、それをすごく感じた。近頃は多チャンネル化も進み、様々なスポーツ等を容易に見られるようになったが、それでもなお、いやそれだからこそ、生で見る面白さに魅了されるのであろう。

  私自身、これが人生最初で最後のオリンピック観戦になると思っていたが、この楽しさを味わってしまった今では、もう何度でも見てみたい気分である。次に日本にオリンピックが来るのはいつのことだかわからないから、オリンピックでなくとも、例えばW杯のジャンプ・ラージヒルなどでも良い。とにかくあの感動をもう一度味わってみたいのだ。次の冬季オリンピックはアメリカのソルトレイクシティで開催されるが、万が一行けるとしたら、さしあたり思いつくところでは、ジャンプの団体戦で(多少の皮肉をこめて)"Japan as No.1"というプラカードを持って応援することだろうか。

  それはともかく、今回、学生生活最後に貴重な経験をすることができた。この感動を与えてくれた選手を始め、深夜から準備に余念のなかった大会スタッフ、ボランティア、そして一緒になって応援した観客に(この場を借りて)感謝したい。「WAになって踊ろう」も、某アイドルグループが歌っていた時にはあまり良く思わなかったが、今ではカラオケでも行こうものなら真っ先に歌ってしまいそうである。長野オリンピック自体も、チケット販売方法や観客輸送の不手際など問題が多かったが、ホスト国選手の大活躍もあって、成功したと言えるのではないだろうか。そして、夏季でも冬季でも、私の目の黒いうちにオリンピックがもう一度日本に来ることを待望したいものである。

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