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五輪館
毒語館個人的体験記

[1997.10]

個人的体験記

『それぞれの探し物』作成裏話

 ファミリー国立の震災ボランティア活動報告書『それぞれの探し物』を刊行してから、早くも2年が経過した。作成に半年を要し、途中楽しい時も辛い時もあったが、時間が当時の「思い」を風化させたのか、今は「良い思い出」として片付けられつつある。しかし、震災から1,000日が経ったとはいえ、この出来事は簡単に忘れるわけにはいかないし、自分自身これだけ情熱を注いだ理由を再確認しておくのも悪くない。そこで、今回は報告書作成の過程を振り返り、知られざるドラマやエピソードを記しておきたい。これが実物を読む際の参考にでもなれば幸いである。

1.隗より始めよ

  最初に報告書の話が持ち上がったのは、3月下旬頃であったような気がする。震災から2ヵ月も経つと、現地はいちおう落ち着きを取り戻し、ボランティアの仕事も徐々に地元に引き継がれていったが、それに際して、これまでファミリー国立が行なってきたケア活動の記録を後世に残しておこう、となったわけだ。それゆえ、撤退(4/15)前から各種データをデジタル化していったが、膨大な資料であるため、短期間で簡単に片付くものではなかった。そこで残りを国立に持ち帰り、まとめることと相成った。

  一方、この時期になると、震災ボランティア団体の間でも報告書づくりが行なわれるようになっていた。各地で活動報告のシンポジウムが頻繁に開かれ、活動記録を残そうという気運も高まっていた。また、逸早く報告書を作成する団体も現れていた。こうした御時勢であったから、ボランティアを卒論に取り上げようとしていた私としても、この機を逃さず、ファミリー国立の活動報告を作成するべきだと考えていた。しかも現地に行った時に、ケアの成果をまとめるように言われていたので、もはや後には引けなかったのだ。

  こうして、具体的な方針など決まらぬまま、とにかく4月28日に集まることにした。国立市の社協に場所を借りたが、集まったメンバーは、立ち上げに貢献した坂本氏、後半のケア活動を担当した原口さん、中盤でリーダーを務めた貝瀬君、それに私の4名だけであった。加えて坂本氏は、社協で働き始めていたためかあまり肩入れしようとせず、静観する構えであった(ようだ)し、貝瀬君もゼミが忙しいと嘆いていて、戦力として期待するのは酷であった。

  しかし、そうは言っても、今この時を逃せばおそらく一生報告書など作れないと悟っていたので、私はその必要性を説き、両名の説得を試みた。2人は理解を示してくれたものの、ならばリーダーをやってくれ(こんなぶっきら棒な言い方ではなかったが)ということになり、言い出しっぺの私が責任を負わされることになった。どう考えてもリーダーには不向きな人間であったが、状況が状況なので、某サッカー代表監督のように、しぶしぶ引き受けることになったのである。

2.浪人覚悟で

  5月に入ると、全体の構成を考えるために、当面毎週金曜日に集まることにした。

  ところで、構成を考えるにあたっては、東京農工大学「キャンプオリザ」の報告書を参考にした。こちらは朝日新聞(ただし多摩版)で数日連載されるほど有名で、早い時期から私も目を付けていたが、何と4月15日に報告書をまとめていたのである。その日はあいにく用事があって報告書を見ることはできなかったが、後日知人より入手したのである。

  中を見ると、知られているだけあって、さすがに良くまとまっていた。分量にして160ページ、内容も概要から始まって日記調の活動報告、参加者の声、豊富な資料と、無難にまとめている。しかし、私の感性からすると、活動報告が仕事の項目の列挙となっているなど、従来型のお堅い「報告書」の域を出ず、とても多くの人が楽しんで読める代物には思えなかった。確かにこれなら「報告書」としては成功なのかもしれないが、殊に震災ボランティア活動などでは、各人の「思い」が伝わるような読み物でないと作る意味がなく、少なくとも、私は作る気が起きなかった。そこで、この報告書を質・量ともに越えるものを作ろうと決意したのであった。

  実は、ファミリーでは既に2回に渡って『あなたにとって”ボランティア”って何でしたか?』と題するボランティア参加者からのレポート集を作成していた。これは、寄せられたものをそのまま印刷しただけだが、現地の様子も克明に記述されており、内容的にはかなりの財産であった。だから、これにケアのまとめなどの「報告書」的な部分を加えれば一応報告書として体裁が整うのだが、それだけでは不満であった。

  そこで、最初に活動の流れを物語のように記してみてはどうかと考え、ミーティングの時に提案してみた。この時は、活動の時期的な区切りに合わせて4つに分けて記述することも説明したのだが、案としては認められた。そして大筋で、第1部に物語調の活動報告、第2部に各人の感想・報告集、第3部にケアなどの資料のまとめ、という構成が決まった。

  しかしながら、これだけの作業となると、2~3名で作成するのはあまりに無理であった。そこで坂本氏に応援要員を募るようお願いしたのだが、サボりがちな性格のためか、仕事が忙しいのか、なかなか声をかけてもらえなかった。折しも貝瀬君はゼミが忙しくなると言ってリタイア寸前で、私も就職活動等を行なうべき時期になっていたので、作成体制としては瀬戸際に立っていた。そこでやむなく直訴したところ、簡単に屈して数名に協力を依頼してくれ、快諾する方も幾人かいたので、何とかやっていけそうな見込みがたった。

  とはいえ、個人的には大学4年ということで、就職・卒論という難題を抱えていた。既に同じゼミの面々は、資料請求はおろかOB・OG訪問まで行なっており、この時点で完全に遅れを取っていた。また、私自身就職活動に何か吹っ切れぬものがあり、院受験を少しだけ考えていたのも事実だ。

  しかし何より問題なのは、就職活動等は来年でも再来年でも可能だが、報告書の作成は「思い」というエネルギーの残っている今でないとできないということだ。だから、浪人覚悟で報告書作りに賭けた方が、きっと後になって後悔しないだろう。そう考えた時、自分の中で気持ちは固まった(こんな風に書くとカッコイイかもしれないが、事実そうだったのだ)。そして、それだけに納得できる物を作ると心に誓ったのであった。

3.「編集作家」の苦悩

  6月に入ると、初期のケアを担った東野さん、ゴミ収集に貢献した島川さん、短大に合格したばかりの岡沢さんなど、新規メンバーも加え、いよいよ具体的な作業を始めた。まずケアのまとめについては原口・東野らに基本的に任せることとし、2部のレポートのタイピングを島川・岡沢らにお願いして、私は最大の課題である物語調報告を(言い出しっぺなので)担当することとなり、当面は現地でお世話になった高砂本部長を招いたシンポジウム(7月下旬予定)までに完成させることを目標とした。

  ところが、私が活動に関わった時期は2月半ばからであるし、現地に行ったのは20日程度であったから、当然わからないことの方が多かった。そこで、さしあたり各人のレポートや現地より毎日FAXで送られた「現地支援状況報告書」などの各種資料を元に概要をつかみ、何人かの主要なメンバーには直接当時の様子を伺う(最初の立ち上げ部分については坂本氏に簡単な作文を書いてもらった)などしてイメージを膨らませていった。そして、それをストーリーとして組み立て、ノンフィクション小説のように記述していったのである。

  だが、これが非常に辛い作業であった。と言うのも、通常小説家(や漫画家)は編集者の催促などがあってしぶしぶ書き進めるのである(これはイメージであり、例外はもちろんある)が、今回の場合は自分自身が編集者の立場も兼ねているので、外圧ではなく「内圧」でこの試練を克服しなければならなかったからだ。いくらAB型が二重人格であるとしても、このバランスを取るのは至難の業であった。

  しかも、私の場合ある程度ストーリーが固まらないと書かないので、それが苦悩に拍車をかけた。そのため、毎週1節を基本に書き進めたのだが、実際に書き始めるのは前日もしくは前々日からで、その間の徹夜は珍しくなく、時には集合時間になっても追い込み執筆をして皆に迷惑をかける有様であった。

  こうして書かれた原稿は、プロジェクトメンバー及び時期的に関わりの深い人にチェックしてもらい、記述の誤り・表現の不適当な箇所等をフィードバックしていった。そして、皆がチェックしている間、私は2部・3部で出来てきたものの誤りをチェックしたり(自分で打ち込みもした)、アドバイスを行なったりした。しかし、7月初めから現地より帰還した川本氏が加わったものの、とても7月のシンポジウムには間に合わないので、やむなくそこでは紹介だけに止めた。

  そんなこんなで時は過ぎ、結局夏休み中もこの一連の作業の繰り返しとなった。「私の夏を返せ~!」と言いたいところだが、そんな余裕すらなく、毎日が執筆と校正・編集で暮れていった(なお、この時期私の生まれ故郷をモデルにした宮崎駿作『耳をすませば』が上映されていたが、とても映画館には行けなかった)。

  しかし、皆との協議の中で詳細な構成も固まり、入れるべき図や写真なども随時選択していった。また、各部の扉絵を建築が専門の水沼氏に依頼し、表紙とそのデザインも多数決で決めた。表題についても、様々な案を考えたが、結局親しみやすいものとして『それぞれの探し物』が選ばれ、副題には別の案のサブタイトルで使っていた「震災ボランティアは何を見たか」が採用された(これは私の案)。そして、日が経つにつれて、段々と形になってきたのである。

4.想像を超えた創造

  9月初めになると、第一段階の執筆はようやく終了し、後は修正やページ割等の編集作業、それに印刷作業が残っていた。ここまで来ると、分量にして230ページほどになることがわかったが、これは当初誰も想像もしていないほどの量であった。私としては、第1部は第2部に量的に匹敵する程度を目処に書いていたが、結果的にはそれを超える量となったし、第3部も各種資料を載せたりするうちに、どんどん膨れ上ってしまったのだ。

  だが、これは「水膨れ」したわけではなく、内容的にも充実したものであった。自画自賛になってしまうが、これなら活動に参加した人はもちろん、参加しなかった人にも良くわかり、読み物として読み甲斐があるものになったと思う。個人的には、これは「報告書」を超えた報告書の創造の試みだったのだが、一応の成功をみたと言えるのではないだろうか。

  全体の編集作業は、当時私が使っていたマックIIciで行ない、出来た原稿から順次印刷していった。また、メンバーには2部の感想文を書くよう幾度となく「圧力」をかけ、ぎりぎりの段階で何とか書き上げさせた(後日談では、私はかなり怖い存在となっていたらしい)。

  部数については、50部などと最初いろいろな意見があったが、私などは今回の試みを多くの人に知ってもらいたいのと、多少多めに刷っておいた方が良いとの考えから100部以上を望み、結局その線で片がついた。

  そして、週2回程度の割合で集まれるメンバーが集まり、印刷作業を進めた。原稿も比較的順調に仕上がったが、全てを最終チェックするためどうしても時間がかかってしまい、最後の原稿が上がり、印刷・ページ合わせ作業等が終わったのは、9月末のことであった。

  その後、すぐ隣にある障害者福祉センターに表紙の糊づけ等をお願いし、10月初めになって、ついに、ついに報告書が完成した。あしかけ半年、苦労の末の完成であったので、喜びもひとしおであった(いちおう正式発刊日は、きりの良い10月15日としていた)。

5.思わぬ反響

  でき上がった物は関係各位(神戸も含む)に配られたが、予想以上の希望数の多さのため、100部はあっという間になくなりそうであった。ただ、これでは当初の目的、すなわち多くの人に読んでもらうという願いは叶えられないと言っても過言ではない。もちろん7月のシンポジウム参加者で希望した方等には送付したのだが、これだけでは到底物足りなかった。

  そこで、少ない残部の中からとりあえず朝日新聞と読売新聞(どちらも多摩版用)に送り、反応を待った。だが1ヵ月経っても音沙汰なく、かすかな希望は夢幻と消えたかと思われた。

  ところが、天は我々を見捨てなかった。諦めかけた11月半ば、朝日新聞より取材の依頼があったのだ(ファミリー→坂本→私という順で廻ってきた)。信じられない気持ちを抑えながらも、11月21日に国立では有名な「ロージナ」で待ち合わせ、私が1対1で取材を受けた。所属に始まり、きっかけや作り終えた感想など質問は多岐に渡った。

  そして、最後に報告書とともに私の写真を撮りたいと言われたが、ここで私は断固拒否した。表向きの理由は「皆で作ったものだから」ということであったが、実はこんな不細工な顔が新聞に出ては倫理上問題だと思ったからなのだ(と言っても、神戸新聞の記事には、不覚にも私が写ってしまっている)。

  こうして無事(?)取材を終えたが、肝心の記事はなかなか掲載されなかった。連絡も何もなかったので、ひょっとしたら…とも考えたが、ようやく12月5日になって、新聞1面分の1/4にあたるスペースを割いて掲載してもらえた。そして、これに呼応して数十名の方から購入希望が寄せられたので、卒論で忙しい時期ではあったが、二十数ヵ所のバグを取り除き、表紙もマイナーチェンジ(決戦投票の末敗れたバージョン)して50部ほど増刷した。これでも多めに用意したつもりだったが、すぐになくなったとのことである。

  その後、私はめでたく大学院に合格した。翌3月には魚崎で「語ろうや魚崎で!!」という催しもあり、約1年振りに現地の方と会うことが出来た。その際、報告書の件で感謝され、ボランティア団体等にも好評であったと聞き、自分の選択が間違っていなかったと再確認したのであった。しかもこの報告書では、本来オブラートで包むべきところも(当時の逼迫した状況を伝えるため)包み隠さず書いていたので、現地の本部の方にはきつい表現もあったのだが、納得されていたようだったので一安心であった。

  そして今回、この報告をWeb上にほぼ完全な形で掲載したのも、こうしたそれぞれの「思い」に少しでも報いるとともに、より多くの人にこのことを伝えたかったがためである。この時期に作業するのは(個人的には)無謀とも言えるが、それも皆の「思い」がなせる技なのかもしれない。また私自身、このことは生涯忘れることなく、深く胸に刻んでおきたいものだ。一人でも多くの方に、この報告を見てもらうことを願ってやまない。

Photo at Uozaki
集合写真 at 魚崎小学校

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