検索 Google
五輪館
毒語館個人的体験記

[1997.6]

個人的体験記

就職活動奮闘記

 幸か不幸か「就職協定廃止」で話題となった1997年、修士2年となった私も、学部4年生に混じって就職戦線に参戦した。1995年の「超氷河期」にはほとんど活動しておらず、またこれまで「普通の生き方」や「当たり前の生活」を批判(叱咤激励?)してきたので、正直言って、こんな私が「社会」に受け入れられるのか、不安であった。ともあれ、ここにその活動の全貌を明らかにするので、普通の人にはあまり参考にならないかもしれないが、「愚か者の珍体験」ということで、笑いの種にでもしていただければ幸いである。

1.大学院「差別」

  大学院生というと、一般的には博士課程まで修了するのが普通なのかもしれない(事実、修士課程を「前期博士課程」と称するところも多い)。しかし、政策・メディア研究科は「高度な職業人」を目指すという特殊なところであった(実際に達成しているかは敢えて触れない…)し、私自身も修士課程修了後は就職を考えていたので、活動を始めること自体、別に迷いはなかった。また、確かに学部卒扱いで「一橋」のブランドを背負って活動した方が楽だったろうし、大学院に行けば就職が難しくなるとは聞いていたが、それも承知していたつもりだった。が、それは想像を(はるかに?)超えるものであった。

  なんだかんだで活動と思しきことを始めたのは、昨年の冬頃からだった。SFCでは、学部・院とも共通で、就職情報誌を送付してもらうために資料請求登録が必要だったので、12月初めにメディアセンター内の就職資料室に行き、はがき登録を済ませておいた(5つぐらい)。同じ頃大学院生用のガイダンスも開かれ、私もたまたまその日学校にいたので参加してみた(20名程度しかいないお寒い状況であった)が、その際情報誌の請求登録をしておけば当面良いとの話だったので、安心して年を越し、授業やプロジェクトで忙しかったせいもあって、しばらくは何も活動していなかった。登録時になかった「リクルート」の請求方法がメールで流れはしたが、今までの分で大丈夫だろうと勝手に判断し、無視してしまった。

  しかし、時が経っても情報誌が家に届く気配はなかった。折しも今年は就職協定が廃止され、「学部生より早く会いたい」らしい院生には不利な戦いが予想されたにもかかわらず、スタートラインにすら立てなかったのだ。リクルートものは1月末に届いたらしいが、登録していなかったので他社のものを期待していたが、2月下旬になっても音沙汰がなかった。おまけに、ダイレクトメールも数えるほどしか来ていなかった。一橋の時は、この時期には段ボール箱3~4箱分くらいの資料が勝手に送られてきたものだったが、大学院では皆無に近い状況であったのだ。

  そこでやむなく媒体会社に電話したところ、1つは「院生は11月で締め切った」とのこと(はがきには一言も書いてなかった!)、もう1つは「3月中旬にお届けします」という脳天気な返事であった(結局届いたのは3月末だった)。新聞や雑誌では既に動き始めた模様が描かれていたにもかかわらず、私はようやく大学院「差別」の実態を知ったに過ぎなかったのである。

2.プライドと戦略

  こうして、3月になってようやく資料請求を始めた。と言っても手元に資料がなかったので、就職資料室で参考になる資料をあさったり、書籍やインターネットで当たりをつけるより方法がなかった。

  具体的には、大学院のプロジェクト経験を生かして、シンクタンクなどの調査・研究機関で公共政策等に絡む仕事をしたいと考えていたので、まず総合研究開発機構(NIRA)のサイトから主なシンクタンクを探していった。すると、大手ではネットワーク経由で登録できるところが意外に多かったので、さっそく記入箇所を埋めて送信した。しかし、これでは5つぐらいしか登録できなかったので、次に同じNIRA発行『シンクタンク年報』などで興味関心の合致する所を片っ端から調べ、官製はがきで資料請求を行なった。こうして、ともかく計20社ほどとの接触に道が開けたのであった。

  ここで、普通ならば何百枚も請求するべきなのかもしれない。事実、平均は100~150枚程度らしいし、私の周りには320枚出したという強者もいた(他大学学部生)。しかし私の考えでは、企業研究は大切だとしても、行く気もない所に出しても無駄であるし、だいいち書くだけで相当疲れてしまうだろう。十数枚書いて疲れてしまった私には、もはやそんな余力はなかった。それに就職先で後悔したくなかったから、内定をもらっても納得できるよう、「就社」ではなく「就職」をモットーに、請求の段階である程度絞り込むのが賢明と判断した。

  とはいえ、学費(高過ぎる!!)から考えれば事実上やり直しのきかない活動であったし、シンクタンク業界は基本的に採用が厳しいという噂で、特に私のような文系&社会系の人間は採用数が極端に少ない状態(1社あたり多くても1~2名程度)だったから、一抹の不安は禁じ得なかった。そのうえ請求に対する返事が、最初のうちは「本年度の採用予定はありません」といったものが多かった(返事はたいがい中小ほど早く、大手ほど遅かったせいもある)ので、このままでは危険極まりなかった。そこで、情報産業など関連領域にも手を広げてさらに数枚資料請求し、結局30社弱との接触で落ち着いた。

  そうこうするうちに、3月中旬頃から資料が届き始めたが、時同じくして、今後の活動に備えた準備も始めていった。まず消費税対策も兼ねて携帯電話(安さからツーカー:CMは好きじゃないけど)を購入し、さっそく自宅留守時に転送できる「ボイスワープ」も申し込んだ(しかし実現したのは2ヵ月後のことであり、活動にはほとんど役立たなかった!)。これまで家に置いていなかった背広やネクタイなども、実家からいくつか運び込んで、いつ呼び出しがかかっても大丈夫なように備えた。

  だが、いわゆる「マニュアル本」には手をつけていなかった。より正確には、いちおう本屋で見るには見たが、あまり参考になる箇所がなかったし、何よりそれに従うことで画一的な対応しかできなくなり、「自分」というものを表現できなくなるような気がして、あえて使わないことにしたのだ。

  また、この時期通常ならOB・OG訪問なるものを敢行するのかもしれないが、個人的には、話を聞くだけならまだしも、大学が一緒だからという理由だけで「頼ってしまう」のには納得できなかった。少なくともリクルーター制と言われるものは学閥の温床となっており、私を、私自身ではなく大学名を通して見ているわけだから、許容できるものではなかった。幸い、今回受けたところはセミナーか書類選考で始まるものばかりだったので、これによる損害は顕在化しなかったが、このせいで(?)事前の接触は皆無に等しかった。

3.怒涛のセミナー&面接

  3月末ともなると、主だった会社の資料がようやく一通り揃い、セミナーの予約も始まり出した。「採用予定なし」や「未定」のところが案外多く、資料請求した会社数自体も少なかったので、予約の入れられるところには入れるよう電話をかけた。中には電話受付開始より後に資料が届いたところもあったため、かなり遅めのスタートとなったのは否めない。

  この時期、マスコミが協定廃止による早期化を煽ったためか、既にいくつかの企業は本格的に動き出していたので、焦らなかったと言えば嘘になる。実際、私が資料請求した所で既にセミナーを行なっていたという「風の便り」を聞きもした。が、この業界では新卒に関しても「必要な時に必要な人材を採る」という通年採用型が定着しつつあったので、それほど急ぐ必要もなかったのである。

  リクルートスーツに身を包んだ「初陣」は、4月11日のことであった。普段は全くといっていいほどフォーマルな格好はしないので、なにか鎧をつけているような着心地であり、通勤電車の混雑とともに窮屈でならなかった。

  この日はF社のセミナーが朝10時からあったのだが、基本的に話を聞いていれば良かったので、眠いながらも比較的楽に済んだ(記入書類はあったが)。しかし、ふと我に帰るとみんな金太郎飴のように同じ格好をしているので、奇妙な世界に迷い込んだようで気味が悪かった(と言っても、自分もその一人なのだが)。

  その後、欲張って一橋大学に行って成績証明書・卒業証明書の発行を申請し、履歴書用の写真撮影もこなし、さらに夜はプロジェクト関連の打ち上げで業界関係者の「愚痴」を含めた話も聞いたので、結構ハードな一日となった。おまけに南武線で人身事故が発生し電車がストップするなど、散々な幕開けであり、疲れが倍加したのは言うまでもない。

  その後、4月後半には、平日は28日以外毎日セミナーか面接が入ることとなり、用意しなければならない書類も多々あったので、この間はかなり辛く忙しい日々を送った。セミナー予約の際は、現住所の場所柄(都心まで片道1時間半くらいかかる…)からなるべく午後に入れたので、昼頃発って中央林間より東急線で(座って)通い、夜のラッシュに紛れて帰ることが多かった。そのため、書類書きは切羽詰まった時以外土日になるのが道理であった。

  また、経験を積むうちに、選考方法の違いも目立つようになってきた。例えばセミナーでは、M社(17日)やC社(24日)のように話を聞いていれば良いものもあれば、Y社(18日)のようにいきなり履歴書・成績証明書を提出し適性検査をいくつも受けさせるところもあった。他方K社(21日)のように事前に試験を行なう等の情報を教えてくれるところもあれば、J社(16日)やS社(22日)のように抜き打ちで試験を行なうところもあった。

  私の場合、4月後半は上記6社と接触したが、試験等のあった4社のうち、午後にあった3社はクリア(午前だったS社は唯一SPIまんまだったが、寝ぼけから撃沈した)し、さっそく1次面接を受けることとなった。面白いことに「1週間以内に連絡します」などと言っても、合格の場合はたいてい翌日か翌々日には連絡が来るものであり、その日程調整で、予定はどんどん埋まっていったわけである。

  面接では、語気や存在感で印象づけるタイプでない以上(気配を消すのは得意なのだが)、内容で独自性を発揮する必要があった。そのため、これまでのプロジェクト経験や修論のテーマ等との関連から「これからは単にクライアントである官公庁から業務を受託するばかりでなく、そのクライアントである市民のニーズを詳しく把握し、専門家同士だけでなくアマチュアである市民とのコラボレーションを通して、より幅広く支持を得られる政策の企画・立案を目指すべきであり、その手法として情報ネットワークを活用できる」といった夢物語(?!)を主張することにした。これは、具体的にはまだどこも実行できていないことなので、企業の懐の深さと将来志向を見極めるのに有効であるし、なにより自分の問題意識・研究関心がどれほど理解されるのかを試す絶好の機会でもあったのだ。

  面接自体の形式や内容は、それこそ三者三様であった。初めての面接となったJ社(23日)は2(面接官)対6(学生)の典型的な集団面接であり、形式的な質問しか受けなかったが、他の人の様子を観察していると、面接慣れしている人、してない人、マニュアル人間などもいたりして、対応がなかなか面白かった。Y社(25日)は捨て駒的に受けた(唯一のDM参戦)もので、作文の後、2(面)対1(学)で15分ほどじっくり攻め込まれたが、「内定獲得」という変なプレッシャーもなかったので、面接の良い練習になった。K社(30日)に至っては3(面)対1(学)で行なわれ、人数的に劣勢であったためか厳しい質問も受けたが、慣れもあって何とか対応できた。しかもその後の小論文では、それまでに書類選考用に書いておいた内容を思い出すことで、対処できたのであった。

 こうして、4月はあっという間に過ぎていった。

4.嵐が呼ぶ内定

  5月になると、4月下旬に出しておいた書類審査の結果も判明しだし、F社は7日、N社は8日、M社は15日に面接と決まった。また、J社とK社の2次面接も先方の都合で7日に決まったので、ゴールデンウィーク明けはいきなり1日3社面接のスタートとなった。

  7日は快晴であったが、朝早く起きて非常に眠く、面接も久しぶりだったので、気分はかなりブルーだった(見た目は常にブルーかもしれないが)。そのため、最初のF社の1次面接は1対1で40分ほど様々なお話しをしたが、思い返してみても、我ながら言いたいことが伝わっていなかった。相手の方が妙に人数(プロジェクトメンバー数など)にこだわるのは滑稽だったが、最後に「うちの部は2名程度しか採らない」と念を押された(ここでも人数にこだわっている)ので、採用は無理だと思わずにはいられなかった。

  続いてK社の最終面接であったが、現地に着くと少し時間の余裕があったので、気を取り直して、立ち読みや散歩などで目と頭を覚ますことにした。幸い、昼を過ぎると多少なりとも脳細胞が活性化されたようで、錆びついた思考回路も働くようになってきた。そこでその勢いのまま赴くと、まずは総合研究所長との1対1の面接が待っていた。さすがに緊張したが、話してみると気さくな方で、私の「主張」に対しても一定の理解と関心を持って下さったし、「前の面接の人が即戦力として使えそうだと言っていたが、その意味が分かった」と高く評価してくれたので、私自身はかなり好印象を持った。結局30分ほど話した後、しばらく間を置いて今度は役員3名との面接となったが、こちらも比較的和やかなムードで話が進んだので、時間は10分程度と短めだったが、かなりの手応えをつかんで会場を後にした。

  そして最後にJ社の2次面接が(多少時間を置いて)あったが、この間軽食を取ったせいもあって、疲れがピークにきていた。面接で着席した時でさえも、眠くて目の焦点がぼけたり、思考が止まったりするような有様であった。しかも相変わらずの2(面)対6(学)の集団面接であり、面接官は多少偉くなっていたものの聞く内容は大差なかったので、意気消沈し、前回と変わらず適当に答えていた。さすがに周りのレベルが上がっていたので後半多めにしゃべってみたが、今後の巻き返しで何とかなると信じて疑わなかった。

  しかし、面接が終わると「実は最終面接である」との報を聞き、驚嘆してしまった。なぜなら、大手J社がこうも大ざっぱな選考をするとは思っていなかったからである(同席した人たちも似たようなことを言っていた)。こんな選考で決めるのであれば、こちらが会社の行く末を心配してしまうほどだ。すぐさま、仮に受かっても行かないと決心し、帰宅したのであった(帰宅後すぐに眠りについたのは言うまでもない)。

  翌8日は「メイ・ストーム」吹き荒れるあいにくの空模様だったが、私は朝から最大手N社の面接に向かっていた。しかし、前日就職活動最大のヤマ場を越えたためか、緊張感が薄らいでいたのは間違いなかった。指定された時間に到着すると、まず試験を行なったが、これが通常のマークシートではなく(数学の証明問題もあるような)高校入試もどきの問題であったので、久々の「試験らしい試験」に面喰らってしまった。その後1対1の面接が30分ほど行なわれ、実施プロジェクトや技術的な「ウリ」等について、なかなか厳しい突っ込みもあったが、言うべきことは言ったので後はなるようにしかならないと考え、嵐の中、会場を去っていった。

  そして、その日の夜、思いがけずK社より内定の報が舞い込んだ。週末まで、遅くとも週明けには連絡すると聞いていたので、思ったより迅速な対応であった。この時点で、「就社」でなく「就職」という当初の目的はいちおう達したわけである。

  私自身もK社には好感を持っていたので、その場で決めてしまっても良いぐらいであり、何ら不満はなかった。しかし、まだ時期的に早かったし、活動中、あるいはこれから会うところもあったので、この時は感謝の意を述べるとともに、最終的な決断は5月末まで待って欲しいと告げた。幸い先方も理解を示してくれた(この時拘束でもかけられたら、印象を悪くして、事態は変わっていたかもしれない)ので、しばらくは「保険」を抱えて活動を続けることになったが、これで肩の荷がおりたのは偽らざる事実であった。

5.「縁」

  ところで、就職活動をしていると、よく「○日までに連絡がなかったら、ご縁がなかったということで…」という台詞を耳にするが、その意味では、今回の私とK社には間違いなく「縁」があった。と言うのも、実はそれ以前に「縁のなかった」S社とY社の(落ちる理由となった)選考時には、買ったばかりのネクタイを着用していたので、このネクタイを着けると落ちるというジンクスが、私の中で噂されるようになっていた。

  しかし、それに負けてはいけないと再度挑戦したのが、K社の1次面接であったわけだ。この時も(受かった場合)5月2日までに連絡があると聞いていたが、午後5時過ぎても連絡がなかったので「ジンクスは破れなかったか…」と一時思ったが、まもなく連絡があり、救われた思いを抱いたものである。そしてそれが内定にまで結びつくのだから、人生わからないものである。

  さて、その後は9日に予定していたC社の選考をキャンセルするとともに、電話等で接触を試みてきた企業(D社を始めとする5~6社:原則的に資料請求はしたが選考に入っていなかったところ)に対しては、内定をいただいた旨伝えてお断りした。そのため、活動を続行したのは、事実上最大手のN社とM社だけとなったわけである。

  N社には、内定の件を告げ早めに会ってもらえるようお願いしたところ、14日に2次面接を受けることになった。例によって1対1の面接となったが、今回の面接官は何か「偉そう」であった。向こうは書類を初めて見たようで、しばらくだまって目を通した後「ほぉ~、君は一橋を出て来たんだ、ふ~ん」といった調子で切り出してきた。こちらは必死の思いで足を運んでいるにもかかわらず、少しも悪びれない態度に、私は「不信感」ないし「失望感」を抱いた。仕事で忙しいのはわかるが、面接官であれば、事前にある程度相手のことを理解しておくのが礼儀であろう(せめてその素振りは見せないでほしかった)。

  しかもその後、プロジェクトで行なったことに対して「そんなこと誰でもできるんだよ」と、私の「主張」に対しても「うちは儲けてなんぼだからね」などと、正反対の意見で攻めてきたので、それなりに対抗してはみたものの、私の中で失望感が広がるとともに、以前同社の人から聞いていた「愚痴」の意味を痛感した。確かに株式会社だから儲けなければいけないが、それだけが使命ではない(公共政策なんぞそんな儲かるわけもない)はずだし、だいいち「採ってやる」という態度がみえみえで気に食わなかった。これも縁がなかったとしか言いようのない、残念なことであった。

  M社に関しては、もともと同期の知り合いが入社しそうだったので、既存のネットワークは外に持つべきと思っていた関係上、ほとんど行くつもりはなかったが、興味本位で受けてみた。これが最後かもしれない、と思って向かった1次面接は15日の午前だったが、いきなり8(面)対1(学)で1時間ほど絞られ面喰らったが、内容的には昨日より厳しい突っ込みはなく、面接官も、良く言えば紳士的、悪く言えば役所的、お堅いという印象であった。その後の小論文が終わった際聞いた話では、今回の面接は社内の各分野から担当者が来ており、どこかから採用希望があって次に進めば採用がほぼ決まるとのことであったが、いずれにせよ1週間後には連絡すると聞いたので、連絡待ちとなった。

  こうしてしばらく連絡待ちの状態が続いたが、その間改めて考え直してみても、K社に行く意思は揺るがなかった。シンクタンクとしては決して大きくもなく有名でもなかったが、公共機関関連の仕事が多かったし、何より私のことを高く評価してくれた。また規模が大きすぎない方が自由度も増すのでは、との思惑もあった。この時点で自分としては意思が固まったので、来年からの新居地選定に心踊らせるなど、もはや気分は就職活動とは別のところに向かっていた。

  すると、ほどなくしてJ社とF社より縁のなかった旨連絡があり、N社からも良い返事をもらえなかったが、まったく落ち込むことはなかった。M社からは1週間経っても連絡がなかったので、縁がなかったのだろうと解釈し、時間だけが刻々と過ぎていった。

  そして5月30日になって、約束通りK社より連絡が来たので、何ら迷いもなく、内定の受諾を告げた。数日後には「採用内定通知書」が届き、それに対しこちらから「入社承諾書」を送って、6月5日、私の就職活動は正式に終了したのであった(翌日M社より2次面接の連絡があったが、「時すでに遅し」であった。当然お断りしたが、これも縁がなかったということであろう)。

6.複数年契約

  振り返ってみると、今回は周到な準備をして臨むはずが、結果的にかなり危ない橋を渡る羽目になってしまった(いつものことだが)。それでも「差別」を切り抜け、自分の意志を通して無事就職できたのだから、良しとすべきであろう。

  また、もともとどこに就職するにしても、一生同じところで働くとは考えず、むしろプロ野球選手の複数年契約のつもりで活動していたので、ある意味「気楽」に取り組めたのも良かったのかもしれない(この点で、SFCは離職率が高いと非難されるが、私は、企業社会側にも相当問題があるので、むしろ望ましい傾向だと思っている。ただ、1年ぐらいで辞めてしまってはあまりに「もったいない」とも思う)。当面は30歳前後までのつもりで考えているが、その後どうするかは、会社の居心地、社会環境、私的ネットワークなどの変数に依存するから、今の段階では何とも言えない。乞うご期待である。

Page Top
Copyright © gorinkan.org All Rights Reserved.