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五輪館
毒語館個人的体験記

[1997.1]

個人的体験記

震災ボランティア外伝
~誰にも言えなかった真実~

※以下の文章は、1996年度大学院秋学期講義「マルチメディア文化論」のレポート課題「今まで自分が感動した体験を極めて客観的に分析して下さい」を一部改変したものです。

1.誰にも言えない感動

  私にとって、今までで最も感動した体験は何かと問われれば、様々なことが脳裏をよぎるが、思いつく中では、おそらく阪神・淡路大震災の際のボランティア活動であろう。

  もはや2年前の出来事となってしまったが、私は当時、震災直後に立ち上げられたボランティア団体「ファミリー国立」の一員として、東京の国立から神戸市東灘区の魚崎小学校に向かい、2月下旬と3月下旬の2回、それぞれ11日間ずつ活動を行なった(それ以外の時は、東京サイドの事務局の手伝いをしていた)。そして、その後4月15日には団体としての活動を終えたが、さらに半年もかけて活動報告書作りに勤しんだのである。

  では、何を根拠に「最も感動した体験」だと述べるのかというと、最初に現地で活動した時の帰りの道中で、感動のあまり涙が止まらなかったからである。学校で別れの挨拶をし、しばらくして一緒に活動した仲間と別れた後、堰を切ったように涙が溢れてきた。その涙は、様々な思い出を連れたまま、結局(新幹線で)静岡あたりまで止むことはなかった。もちろん、混雑した電車の車内などでは、一般の人に気付かれまいとして必死に隠してはいたものの、考えてみれば2時間以上も泣き続けていたのだから、異常な事態に違いあるまい。

  そのため、このことはあまりに恥ずかしく思え、今の今まで誰にも言えなかった。だが、ここで告白してしまった以上、以下でその理由を明らかにしていきたいと思う。

2.感動の源泉

  では、この「とんでもない」感動の理由としては、いったいどんなことが考えられるのであろうか。

  まず第一に挙げるとすれば、それは今回の活動に対する「思い入れ」であろう。私自身、今回魚崎に行って活動するまで、いわゆる「ボランティア活動」に参加したことはなかった。強いて言えば、高校時代に水泳部に入っていた関係で、大会の運営を手伝ったり、現役の高校生と一緒に泳いで泳ぎを教えたりしてはいたが、「ボランティア」という意識は全くなかった。

  では、なぜ今回震災ボランティア活動に参加したのかというと、1つには、やはり当時ボランティアを卒論のテーマにしようと考えていたことだろう。ボランティアに新しい可能性を見い出し、この視角から現代社会の問題点を考えていこうと思っていたのである。そんな中、ボランティアが活躍しているという報道は、私を大きく勇気づけるとともに、現地に向かう大きなインセンティブとなった。その意味では、今回の出来事は(被災者の方には申し訳ないが)私にとって運命の悪戯というか、偶然の巡り合わせであった。

  2つ目としては、震災直前に神戸を観光していたことである。震災の約2ヵ月前、私は一橋大学に在籍しており、神戸大・大阪市大との「三商大ゼミ」が神戸大で開催されることになっていたから、初めて神戸に訪れ、三ノ宮周辺を観光して周った。そして、運命の1月17日の朝、テレビをつけて真っ先に目にしたのは、変わり果てた三ノ宮の姿であった。これは相当のショックであったことを、今でも鮮明に覚えている。

  こうした2つのことから、私は居ても立ってもいられなくなり、強い「思い入れ」を抱いて、活動に参加する決意を固めたのである。

  次に、第二に挙げられるものは、「思い入れ」と実際の活動とのギャップである。これは意外に思われるかもしれないが、第三の理由とも相まって、感動を生んだ伏線になっている。

  と言うのも、私の場合は、まず震災が起きた頃はちょうどテストとレポートに追われた時期で、とても現地に向かえるような状況ではなかったから、実際に活動に参加するまでには時間がかかったのだ。さすがに、自分の1年を棒にふってまでボランティアをしようとは思わなかったのである。しかし、この選択で本当に良かったのか、もっと早く行っていれば良かったのではないか、と考えると、自分が情けなく思えてしまう。

  そのうえ、現地に向かった2月下旬の時点では、それまでのボランティア等の活躍の甲斐があって、既に安定期に入っており、ボランティアの仕事も減り始めていたのである。そのため、個人的にはボランティアのリーダーや他のメンバーに迷惑をかけないように、自分でできる範囲のことは自ら行動するようにしたつもりだが、正直言ってあまり役に立てなかった。この点は、誠に申し訳ないとの思いで一杯であった。

  そして最後に、第三の理由としては、こうした不十分な活動であったにもかかわらず、別れ際、現地の人達に感謝されたことである。

  現地の対策本部長は、大した働きもしていないとわかっていた(はず)にもかかわらず、「ありがとう」と言ってくれた。また、小学生の子供が言った「また来てな」という言葉は、2年経った今でも忘れられない。これらが本心から出た言葉なのか、私には推測できない。もしかしたら、単に「礼儀」として出た言葉なのかもしれない。それでも、こうした現地の人々の「温かい心」に直に触れたことで、私の心も撃たれた。

  そして、それと同時に、走馬灯のように今までの活動の思い出が頭の中を駆け巡り、それがやがて涙となって表出してきた。いわば、挫折しかかった「思い入れ」が報われたことで、感動したのである。

  今から考えれば、私は、本来は現地の人に力を与えるために活動するべきだったのであろうが、こうして結果的には、逆に現地の人からエネルギーを与えてもらっていたのかもしれない。そしてその力が、3月下旬からの2度目の現地での活動、その後の4月から10月までかかった活動報告書『それぞれの探し物』の作成に向かわせたのかもしれない…

3.裸の自分

  それにしても、こんなことを書くと、裸の自分を見られているようで非常に恥ずかしい。特に、私は幼稚園・小学校と「いじめられっ子」でよく泣かされていたから、それ以来「泣く」という行為が「情けないもの」と感じ、そうした感情表現をひたすら抑えてきたのだ。

  しかし、ここで書いてしまった以上、もはや手遅れである。それに、いつまでも真実を隠し通すのも良くないであろう。これを機に、そして新年の幕開けとともに、これからはもっと自分自身に素直でありたいと思う。

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