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五輪館
毒語館乱世を斬る!

[2000.3]

乱世を斬る!

くたばれ企業社会!

1.マリオネットの果てに

  企業社会批判を続けてきた私が、その懐に飛び込んで、早くも丸2年が経過した。世間的に過酷な業務とされている(らしい)シンクタンクで仕事をしているが、人員そのままで「売上三倍増」などという無謀な鶴の一声を受けて、ただでさえ忙しい業務はますます忙しくなり、おまけに年次が上がって割当ても多くなったので、今や深夜残業は当たり前、午前様や休日出勤も特別なことではなくなっている(たまに夜9時とか10時とかに帰宅すると、街の華やかさと時間の余裕に驚く有様…)。

  就職前に、出張から帰って徹夜して資料を仕上げるとか、連日タクシー帰りなどという業界の話を聞いた時には、要領良くやれば未然に防げるだろうと甘く見ていたが、実際にやってみると、必ずしも当人の能力だけでカバーできるものではないと実感した。「知識産業」などともてはやされることもあるが、知識以上にまず体力がないと勤まらないと、再認識している今日この頃である。

  それに加えて、売上増とともに残業削減令が発布され、アウトプットの質は下がるわ、サービス残業せざるを得ないわと、腑に落ちない事態に直面している。これでは、時給にして1500円程度と、ただでさえ安い給料がますます安くなってしまう(なお、対外向けにはこの6倍ほどの値段で見積もりを出しているので、高給取りに見られることもあるが、実態は給料の8割以上を会社にピンはねされている!)し、仕事を通じて学んだことも、悲しいかな、客先対応と手の抜き方ぐらいになってしまっている。スキルアップは、本来この業界では必要なことだが、残念ながらそんな時間はないので、業務に最低限必要なもの以外は、したくても出来ないのである(それも「つまみ食い」だけ)。おまけに、唯一の救いであるフレックスタイム制を廃止しようとする圧力もあって…

  そんな煮え切らない思いを胸に抱いていた時、手にした本が『「会社人間」たちの末路―次はサラリーマンになりたくない』(ダイヤモンド社)であった。これはかつて朝日新聞紙上に「気がつけばマリオネット」「マリオネットにさよなら」「マリオネットと暮らして」の3シリーズとして掲載されたものを中心にまとめているので、内容をご存知の方も多いと思うが、「会社のために」犯罪を犯したり、過労死したり、思いあまって自殺したり、再就職に追い込まれたりした人々の苦悩が描かれていて、なかなか興味深い。と言うより、哀しい、虚しい、痛々しい、といった感情がふつふつと湧いてくるようだ。

  「サラリーマンは、トップの理念のカサの下で生きていくしかない。それがあくなき利益追求なら、いくら現場で矛盾を感じても従わざるを得ない」と振り返る、談合事件で逮捕された元課長、「まず会社が存在するのが前提だと思ったんです。自分は会社の中で生きていく。具体的には会社の方針や、上の人に『こうだ』『こうしなさい』と言われると、個人の倫理観や考え方と異なっても、最後は従わざるを得ないのです。あの事件は、あとあと思い起こすと、自分が会社に一体化していく最初のきっかけだったかもしれません」と語る、粉飾決算作りを続けた末に左遷された元取締役、「息子が死んだ時、会社側は『できるだけのことはします』と言ってくれた。…亡くなって一年半後、会社の人事担当専務に呼ばれて、会って話をした。『息子さんの死に、会社は責任ありません。病死です』と宣告した。突然だった。『息子さんの死んだ事情を世間やマスコミに発表するのだけは、やめてくださいよ』とも言われた」のに憤り、過労死の労災認定を申請した母親、などなど。

  無論、この本の中には「新たな道」を模索し始めた人たちも描かれており、それが多少なりとも救いになっているが、上記のように、会社の操り人形のようになって働いた末に捨てられる様は、読んでいて悲しくなる。私自身は、会社の株には手を出していないし、クラブ活動にも参加していないし、社内のイベントにもほとんど参加していないので、自分と会社は完全に分離しているつもりであるが、過酷な長時間労働は他人事ではないし、傍から見れば、サービス残業などは会社への忠誠心の現われと誤解されるかもしれないと、思わず自戒してしまう。

  それはともかく、このように、企業社会の論理に飲み込まれて自分を見失う様を見るにつけ、どうにかならないものか、と思ってしまう。はたして、それは企業中心社会の日本では無理なのだろうか。

2.無謀なる幻想は捨てよ

  私が「過労死」というものをまともに知ったのは大学1年の頃で、かれこれ8年前に遡る(年食った!!)。当時はバブル経済が崩壊しかけの頃で、まだまだ企業社会の神話というべきものが残っていた。すなわち、右肩上がりの経済成長、勤めれば勤めるほど報われる年功賃金、潰れるはずのない大企業、会社に忠実であれば解雇されない雇用体制、生活をサポートする企業内福利厚生等々、会社を信じて忠実に働いてさえいれば、忙しいながらも安定した生活が送れることになっていた。だからこそ、個人の倫理観や価値観を捨ててまでも会社の利益を優先させることができ、会社に覆われた生活を送ることができたのであろう。

  しかしその後、最近5年だけでも状況は一変した。経済成長は停滞し、今やマイナス成長でも不思議ではない。年功賃金も崩れ、能力主義(という名の賃下げ)の導入が主流になってきている。大企業も、バブルの清算に乗り遅れると、いともたやすく潰れるようになった。リストラ・倒産の嵐が吹き荒れ、大規模な、理不尽な解雇も目立つようになった。福利厚生も、それまでは必要以上に整備されていたが、大幅に見直されることとなった。かつて日本的経営を絶賛していた著名人の顔が見てみたくなるほど、企業社会を取り巻く環境は変わったのである。

  こうして、神話は幻想であることがはっきりした。

  それでも、神話を前提に生活を構築してしまった人、旨みを覚えてしまった人は、一縷の望みを捨て切れずにいる。こういう人たちは、先の例に見られるように、個人の倫理観・価値観より会社の利益を優先させてしまう。先の書籍が、2~3年前に書かれたものであるにもかかわらず色あせないのは、こうしたマインドコントロールを受けた人が今だにはびこっているからなのだ。

  しかし、会社の利益の前には社会の(公共的な)利益があるはずだ。「会社のため」の犯罪行為などは、社会的正義に照らして考えれば当然行ってはならない。が、日本の場合、社会的正義と会社の利益が同一視されてしまう(ないしは前者は無視される)ため、罪悪感もなく不正義が実行されるのである。これは、会社で働くようになることを「社会に出る」と言い、労働者を「社会人」と呼ぶことからも明らかだろう。

  要するに、本来なら社会的正義と個人的倫理観・価値観を照らし合わせて決断すべきものを、個人的倫理観・価値観を捨てて会社の利益のために行ってしまっていたのである。なんと悲しい「滅私奉公」であろうか。

  だが、そんなことをいつまでも続けていくわけにはいかない。この先5年だけでも、日本の企業社会はさらなる変革を余儀なくされ、「グローバル・スタンダード」の名のもとに、リストラ・倒産・合併が相次ぎ、一層冷徹なビジネススタイルになるであろう(数年前、これほどまでの銀行の大合併劇や有名企業の倒産を、誰が予想しえたであろうか?)。もはや、忠誠を尽くせば守ってもらえるなどという前近代的な無謀なる幻想は捨てて、新しい道を歩まなければならない。今こそ、綻びの見えかけた「企業社会」という呪縛から解き放たれる時なのだ。

3.ボランタリー社会への道

  ここでいう、これまでの「滅私奉公」に変わる「新しい道」としては、やはり自分のやりたいことをやる、「楽しさ」や「感性」を生かせるような「ボランタリー社会」(自発性を生かせる社会)が望ましいと思う。よく言われることだが、一度きりの人生なのだから、他人に指示・命令されたことを行うばかりではなく、数ある選択肢の中から自分の望む道を選択し、悔いのない人生を送ることこそ、人生の豊かさの源泉だと思う。事実、強制されて勉強しても成績が上がらない子供が、大好きなゲームで驚異的な集中力を発揮するのは、自分のやりたいことを行うことが、その能力を最大限に生かす秘訣だということを教えてくれる。

  かつて私は、大学のゼミ選考の作文「あなたにとって豊かさとは何か」という命題に対して、多様性・安心感・自己実現の3つが満たされた状態だと答えたが、それは今でも(多かれ少なかれ)正しいと思っている。今の日本は、安心感が失われ、多様性も自己実現も充分満たされない中で閉塞状況に陥っているが、これからは安心感というセーフティーネットを設けた上で、多様性という選択肢を可能な限り用意して、それを個人が自発的に選択して自己実現を果たす(無論、セーフティーネットによりやり直しも効く)ことが、これからの日本社会に求められているのではないだろうか。

  そして、その萌芽は昨今のNPOの隆盛やSOHOの活発化、ベンチャーの起業などに既に現れ始めていると言える。これらには、金儲けのほかに、(特にNPOとSOHOにおいては)「人間性の回復」というテーゼがあるからだ。

  では、ポスト企業社会としてのボランタリー社会を目指すにはどうすべきか。

  まず社会的には、ワークシェアリングと労働の人間性回復が必要であるから、例えば残業代を一律通常時の1.5倍とし、残業代が払われない場合は企業を訴えることができる(もちろん、それにより不利益を蒙ることはない)とすれば良い。これは、一見残業代だけが増えるように見えて、実は割安な労働者を企業が求めるようになるので、ワークシェアリングが進み、失業率の減少と時短の推進を図れることになる(現在は残業代が安く、一部業種では慣行的に一定時間以上は残業代が支払われないことがあるので、正規従業員を死ぬほど働かせた方が安くつく)。

  オランダのように、正規従業員とパートの差別を撤廃すれば、多様な雇用関係が生まれ、例えば夫婦で週2~3日ずつ働いて、空いた方が家事・育児を行うといったライフスタイルも定着するかもしれない。また、「バカンス法」なるものを制定して、労働者は2週間以上の連続休暇を取得しなければならないとすれば、有給休暇の取得率が上昇し、ゆとりの向上や経済の活性化にも貢献するであろう。さらには、ベンチャー・SOHO・NPO支援なども積極的に進めれば、雇用の流動化・活性化・選択の拡大が期待できる。

  個人レベルでは、まず社会情勢を把握するために(人やメディア等に)アンテナを張って必要な情報を取得しておき、周りに流されることなく自己決定することが望まれる。「みんなが就職するから」とか「大企業なら安心」とかいう横並び神話は崩れているのだから、自分のやりたいことを自分で見つけて、自分で決めるということが肝要だ。

  また、自分自身のリスク管理として、いくつかの選択肢を用意しておく必要もあるだろう。自分にはこれしかないのだ、守らなければならない家族がいるのだ、という方が力を発揮する人もいるので一概には言えないが、この場合一つの道が崩れれば終わりなので、先が見えず動きの速い時代では、かなりリスキーなのは間違いない。できることなら、今の仕事一本に固執するのではなく、別の仕事や地域活動、趣味などの選択肢を増やしておき、適宜柔軟な決断ができるようフットワークを軽くしておくべきであろう(背負うものが大きいと身動きが取れなくなるので、これからの時代を生きていくのは辛い…)。

  ただ、こんなことを書くとすぐ「理想はそうだが、現実はそう甘くない」などと言われる。確かにその通りで、ボランタリー社会への道のりはまだまだ険しく、もしかしたら茨の道になるかもしれない。だが、批判しているだけでは何も生まれない。いみじくも先の『「会社人間」たちの末路』の締めくくりに書かれているように、「自分探しの道は枝分かれし、時に交差し、彼方まで続く。でも、歩き始めなければ何も変わらない」のである。

  個人的には、当初孔子の教えに従い、働き始めて5年後、30歳になる頃に一つの決断を下すつもりでいた(「三十にして立つ」)が、どうも最近の社会の動きの速さと、社内の不穏な動きから、5年も待っていられないのではないかと危機感を深めている。そのため、予定より前倒し気味で自分の能力を磨いていかなければならないと思い始めている。

  また、ここのところのインターネット・ベンチャーの隆盛は、一面では日本的な企業社会の崩壊に貢献すると思うが、このまま進むと、自発的な市民の結びつきで発展してきたインターネットまで企業が牛耳ることになり、金儲け主義の蔓延る「新企業社会」を生み出すことになりはしないかと危惧している。企業というプロばかりでなく、アマチュアの自由な発想が生かされる場があってこそ、従来の企業中心主義から、企業・市民、そして行政がバランスよく協力し合う「ボランタリー・パートナーシップ」の構築へと進みうると思う。

  だが、現時点では市民側に人材や情報があまりに不足しているので、市民メディアを育成支援したり、市民の立場にたった政策立案に協力したりする「捨て駒」も必要だろう。幸か不幸か、私は酒もタバコも博打も女も要らない人間であるし、「五輪館」も上記のような理念を有しているので、これも宿命と思って、例え年収が今の半分以下に落ち込もうとも、目指すべき夢に向かって挑んでいければと思っている。

  ともあれ、これで「君たちはなぜ働くのか」 「走り続ける者たちへ」「くたばれ企業社会!」と続いた企業社会批判3部作は完結である。これがただの「犬の遠吠え」に終わるのではなく、遠い将来実現することを願って、後は実践への道を切り開くばかりである。

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