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五輪館
毒語館乱世を斬る!

[1999.2]

乱世を斬る!

逆境

1.「強さの弱さ」

  世の中、妙に意気がっている人がいるものである。私の周りにも、普段ものすごく威勢が良く、まともにぶつかったら誰もかなわないかのような人がいる。周囲の雑音など物ともせず、まるで暴走列車のように過ごしている姿は圧巻だ。しかし、そんな人に限って意外と傷つきやすいもので、トラブルに見舞われるととたんに参ってしまう。あまりに態度が変わるので、こちらも困惑するほどだ。

  これを評して、私は「強さの弱さ」と言ったことがあるが、逆に言えば、一般に弱いとされる「子供」「障害者」「老人」などは意外と強い(しぶとい?)。子供は泣いても立ち直りが早いし、障害者も辛いはずなのに懸命に生きている。老人にいたっては昨今「老人力」と言われるほど前向きで元気だ。

  金子郁容らはかつて(厳密には今も)「弱さの強さ」ということを言っていた(「強さの弱さ」はこのパロディーに過ぎない!)が、こうした、いわば「逆境」に立たされたときに、「強さ」と「弱さ」が逆転するというのは面白いことではないだろうか。

  こうした事例は、実は最近のニュースでも多く見られることである。例えば航空会社「AIR DO」は、北海道の航空運賃が高すぎると考えた養鶏業者が、北海道経済の浮沈をかけて、いわば「夢物語」のような形でゼロからスタートさせたものであるし、サッカーの横浜フリューゲルス「消滅」を受けて立ち上がったサポーターたちが、その思いを形にしたのが「横浜FC」である。

  またコンピュータ業界においても、某マイク○ソフト帝国の支配に対抗する手段として、一般に無料で公開しボランタリーな支援を受ける「オープンソース」(具体的にはLinuxMozilla)が拡大しているし、震災ボランティア支援の急拡大とその後のNPO活動の広がりも、同じ枠に入れられよう。

  これらは、一見すると非常に脆く、いつ破綻してもおかしくないのだが、信じがたいほど拡大するエネルギーを持っている。それに対して、これまで強かったはずの行政や企業は、今や情けないほどの衰弱ぶりを露呈している。企業はあっけないほど簡単に倒産し、行政も汚職や財政破綻寸前状態が相次ぎ、もはや「お上」などとは到底呼べない有様だ。

2.対処の違い

  では、この差はどこから出てくるのであろうか。

  1つは、「強い」者は事態が変わるとなかなか対応できない状況にあることだ。強がっている人、ないしは強がっていられる人というのは、通常現状から甘い蜜を吸う(吸える)「保守」派であり、ある意味今の社会に過剰適応している。そういうところでは、強い者はますます強くなり、当然「同じ穴のムジナ」となって既得権益に群がる輩が出てくることになる。だが、実はその分、諸々の事情を考慮せざるを得なくなるため、変化への適応が遅れるのである。それに対して「弱い」者は、現代社会では日陰のような扱いに甘んじているので、変化が起きても恐れることはない。失うものがないだけ、環境への適応はスムースにいくはずである。

  2つ目は、「強い」ゆえに勝手に強がって、自分だけで何とかしようとしてしまうことである。「強い」人というのは、少なくとも当人自身が認めている限りでは、強がって他人の助けをもらったり「負け」を認めたりするのを嫌うものだ。だから、逆境に立たされても自分だけで解決しようとして、結局迷宮に迷い込み、やがて消えていくことになる。よく「男の沽券にかかわる」「プライドにかけて…」などとのたまう連中がいるが、プライドを持つのは悪いことではないにしても、無謀に強がっているようでは化石になってもらうより他にない。

  逆に「弱い」人というのは、自分で弱さを認識している限りにおいて、他人と協力して生きていくより仕方がないので、いざという時には支援の輪・ネットワークが広がり、お互いに助け合うのである。この「思い」が持つ力は侮れないもので、多様な人々により構成されるネットワークが動き出すと、先に挙げた例を取り上げるまでもなく、大きなエネルギーを生み出すのである。殊に最近は情報ネットワークの拡大が顕著で、マスメディアや携帯電話、インターネットの世界などですぐさま情報が世界中を駆け巡る時代であるから、より一層「弱者」を「強者」に変えるのであろう。

  ところで、これと関連して、本当は弱いのに「強い」役割を演じなければならない場合は、そのギャップに堪えられなくなり、やがて人知れず「赤ちゃん帰り」することになりかねない(詳細は1999年1月の朝日新聞朝刊を参照されたい)。男性中心社会に疲れた人たちから「男性学」が出てきたのも、この流れの中にあると言える。その意味では、我々はもっと謙虚に自分の弱さを見つめ直さなければならないのであろう。

3.チャレンジド

  思えば、「進化の歴史」というのは「弱者の歴史」でもあった。NHKスペシャル「生命40億年はるかな旅」(1994~95年)によれば、かつて別々の細胞にあった核とミトコンドリアがドッキングし、「真核細胞」となったのは、嫌気性の核と好気性のミトコンドリアが、互いの弱点を相補い、強みを生かし合うことで共生するためであった(そして、これが後の多細胞化の原動力となった)。また海水で進化を遂げた生物が、淡水、そして地上へと向かっていったのは、好奇心があったからではなく、他の主要生物に海を牛耳られていたので、生き残っていくために、ライバルが誰もいない(その意味では安全な)淡水や地上に進出し、その環境に適応していったからなのだ。

  さらにサルから人間への進化は、アフリカの気候変動により密林が減っていき、それまでの「楽園」ジャングルでの生活が困難になった中で、生きるために果敢にもサバンナの地に降り立ったことが分かれ道であったという。その一方で、地球史上「強者」であったアンモナイト(カンブリア紀)や恐竜(白亜紀)などは、環境が変化すると適応できず、絶滅への道を歩んだ。そして今、人間は、自らの欲望により破滅へのレースをひた走っている…

  こうした長い、極めて長いスパンで考えれば、これまで生物は、自らの弱さを自覚しながら、生き残るために共生して新しい世界を切り開いてきた(これが、難しいと言われる「もののけ姫」の結論であるように思えてならない)。この教訓を生かすとすれば、我々は自らの弱さを自覚して、謙虚に、しかし力強く協力・共生して、新しいパラダイムを切り開いていくしかないのである。

  だから、謀新聞社のCMにあった「今の時代は A.ピンチだと思う B.チャンスだと思う」の答えは、私には「強い」人はA、「弱い」人はBであると思う。本当の答えは新聞にあるそうなので、暇な人は見れば良いと思うが、ともかく逆境の時代こそ、協力しながら、未知の世界に挑戦し、環境への耐性を身につける必要があるのだ(まるで病原菌のように)。

  ちなみにアメリカでは、障害者のことを"Challenged"(チャレンジド:挑戦する人)と呼ぶそうである。ここには、新しい挑戦をするという、前向きなメッセージが込められている。私などは、昼食時に毎日のように同じ店に行こうとする「保守派」に反抗しようとするので、皮肉を込めて「チャレンジャー」などと言われたりもするが、これからはこういう「弱い」とされるが本当は「強い」人たちを見習って、本質的な意味での「挑戦者」でありたいと思う。

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