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五輪館
毒語館乱世を斬る!

[1998.9]

乱世を斬る!

奇妙な世界

1.奇妙な体験

  先日、私は奇妙な体験をした。突然、見ず知らずの人から「他のプロバイダーから、どのようにすればinfowebの会議室に入室できるか教えて下さい」といったメールが2件も届いたのである。私はinfowebの会員でもないし、アクセスした覚えもない。せいぜい知り合いにメールを出したことがあるくらいだ。何を言っているのか、皆目見当がつかない出来事であった。

  そのため「すみません、おっしゃっている意味がわからないのですが…」と答えるしかなかった。しかも、この日某TV局の「世にも奇妙な物語」を見た後だったので、ついに自分も奇妙な世界に迷い込んだのかと、疑わずにはいられなかった(頬をつねったりはしなかったが)。

  その後の返信から、「この会議室は会員専用ですから、infowebの会員以外はこの会議室に入室できない」にもかかわらず、私のアドレスで「会員以外でもOKかな?」と発言していたらしいことがわかった。そこで、仕方なく試しに「らしき」ものを見ようとしたが、予想どおり無理であった。謎は深まるばかりだ。私のアドレスを誰かが使っているのか、何かの誤りが生じたのか、それとも、やはり奇妙な世界に迷い込んでしまったのか…ともかく、メールをくれた2人にはその旨正直に答え、逆に「こちらとしては、どんな所にどんなことが書かれていたのか、むしろ聞きたいぐらいなのです」と記すに止まった。

  結局、「infowebのスタッフによって記事が削除されていて、確認が出来ませんでした」という返事をもらっただけで、事件の解決には至らず、迷宮入りとなってしまった。気味の悪い思いだけが残ったわけだ。誰かのいたずらだったのか、今もって謎のままである(犯人は自首を!)。

2.奇妙な現実

  それはともかく、現実にはもっと奇妙なことが多い。最近の毒入りカレー・飲料事件は言うに及ばず、テポドンが突然飛んできたり、我が家のビデオが不意に壊れたりと、おかしなことばかりだ。

  他にも、ポケビとブラビはなぜ争わなければならないのか(小学生の熱意に負けてスーパーで署名した身として)、なぜ人は踊るのか(高円寺阿波踊り大会を見た者として)、なぜ「持つ喜び」を味わえるパソコンは極めて少ないのか(一ユーザーとして)、なぜ一人暮らしの男が部屋を奇麗にしているとあらぬ疑いをかけられるのか(自称「嫌われ者」として)、なぜ記録的豪雨の日ぐらいテレワークできないのか(びしょ濡れになった身として)、なぜ忙しい時に限って仕事が回ってくるのか(休日出勤せざるを得なかった一労働者として)、なぜ「痛勤」電車に皆我慢しているのか(たまに被害に遭う者として)、不況の一方でなぜ過労死するほど働かせるのか(カトテツゼミとして?)、なぜ大会社と役所は結託して当たり前のように汚職を繰り返すのか(正義の味方気取りとして)、なぜマスコミは目の前で大変な事態が起こっていても報道を続けられるのか(一視聴者として)、などなど…数え上げればきりがない。

  こうした各論については、今後適宜論じるとしても、どうも不可思議なことが多い。いや、多過ぎるのだ。これらをノストラダムス的な世紀末論で片づけるのはたやすいが、そんな単純なことでもないような気がする。前々から薄々気づいていたことだが、どうやら、人間も社会も地球も「病んでいる」のだ。先の見えない世の中で疲れ果て、徒労感のみが増幅されてしまったのか、それとも現代文明が行きつくところまでたどり着いてしまったのか、不安と絶望感が募るばかりなのである。この思いが多少なりともプラスに働いたのは先の参議院選挙ぐらいで、後は犯罪や事件に結びついている。今や、街を歩けばボーガンが飛び、食事をすれば毒を盛られるのだ。嫌な時代になったものだ。

3.長いものには巻かれるな

  しかし、より一層問題なのは、こうして問題が明るみになった時に、すぐに「国が」「会社が」と、問題の所在を他に転嫁してしまうことだ。しかしこれは、学校で問題が生じた時に、親が教師の責任という一方、教師は親の責任だと話して責任の擦り合いをするように、問題を曖昧にするだけで、その解決には何ら寄与しない。日本人の「決定力不足」がサッカーや某CMで指摘されて久しいが、問題を他人に委ねるだけでは、弱点を克服することなどできないのである。

  では、どのようにすべきであろうか。無論、場合によっては「国が」「会社が」と糾弾することも理にかなっているが、それを安易に叫べば、挙国一致の名のもとに戦争へと驀進した戦前の日本社会そのものであり、戦後、会社のために全てを犠牲にして尽くした企業戦士の亡霊に取り付かれたようなものだ。これでは、「赤信号 みんなで渡れば 恐くない」(厳密には「赤信号 車がいなけりゃ 恐くない」でなければおかしいのに)という、日本の悪しき習性と変わりがないのである。

  そのため、結局のところは、こうした単純な「長いものには巻かれろ」式の考え方を改めるより他にない。もはやこれまで日本社会が築きあげてきた「常識」や「幻想」が通じない以上、自己責任に基づく自己判断・自己決断しかないのである。なぜなら、様々な情報から自分の判断で取捨選択し、進むべき道を選べば、少なくとも他人に任せた、ないし他人の後を付いていっただけの場合に比べて、悔いは残らないはずだからだ(もちろん、リスクも大きいのだが)。

  指針のない時代だからこそ、カリスマ的指導者の「幻導」に惑わされることなく、また流行に流されることなく生きる術を磨いていかなければならない。そして、もしシンクタンクという職種が、こうした針路を定める有力な材料を提供するのだとすれば、今の仕事にもやる気が出てくるというものである。

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