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五輪館
毒語館乱世を斬る!

[1998.1]

乱世を斬る!

アマチュアリズムの時代・序説

1.修論こぼれ話

  地獄の修論執筆も何とか終わり、残すところ修論最終発表のみとなった。こんな時に風邪を引いてしまったのは大きな誤算であるが、これも何者かが与えた試練と勝手に考え、準備を進めていく次第である。

  思えば、修論の準備はスクラップ&ビルドの繰り返しであった。7月にいったん某教授に玉砕され、その後もなかなか自分の主張が論文として認めてもらえず、苦悩の連続であった。だが、幸いにも11月になって何とか形となり始め、それ以降は調査と執筆を進めていけば良くなったので、年末にはほぼ完成することとなった。最終的にバグも取り除き、「後は出すだけ」となったのは締切前日未明のことであったが、他の人たちが締切当日1時間前から戦場のように走り回っていたのに比べれば、最初に苦労した分、最後はかなり余裕をもって終えることができたと言えよう。

  ところで、私の修論の場合、結局、行政計画の4つの事例について、担当の行政職員、審議会等の策定組織のメンバー、意見を述べた市民の三者にインタビューを行なうこととなったのだが、前2者と後者の対応は大きく異なっていた。

  例えば、某自治体の職員のインタビューでは、市民参加の手法について尋ねても「当時そういうことだったということしか、うちの方ではね…」とか「うちの行政の方でやったことだからねぇ、十分だってことでやったことだと思いますけどね」という曖昧な返答しか返ってこず、立ち入った質問をすると「わからない」を連発するので、聞く方としては非常に歯切れが悪かった。また策定組織メンバーとして議員に話を聞いた時は、記録に残ると後々困るということで、録音を拒否されるなんてこともあった。

  それに対して、市民の方にインタビューをすると、行政に対して「せっかく自分たちのまちを、自分たちの住んでいるところを良くしようと言って動いている人たちがいるのに、それを無駄にするというのは馬鹿だよね」なんて過激な言葉も出てきて、痛快ですらある。修論では、これらの極々一部しか紹介できていないのが残念だが、ともかくこの差は歴然としていた。

  では、それはどういう違いなのであろうか。

2.この国のゆくえ

  既にお気付きの方もいるかもしれないが、前者と後者の違いは「プロフェッショナル」と「アマチュア」の違いである。ここで言葉の意味を(念のため)おさらいしておくと、「プロフェッショナル」とは「専門的であること。職業として行なうさま」であり、「アマチュア」とは「職業としてではなく、趣味として、物事を行なう人」のことである(某辞書より)。

  そのため、前者は肩書きとして属する職業を背負っている(ex.「◯◯市役所△△部の」□□さんと言われることでアイデンティファイされる)ので、ある程度組織を代表した意見となる(そのため、公の場では自分たちの非を認めることが難しい)。それに対して、後者は既存の肩書きとは無縁の(ボランタリーな)活動に従事しているため、基本的に私見に止まるのである。このように考えれば、両者の対応の違いは明らかであろう。

  顧みれば、戦後の日本社会は、政治も経済も社会も、原則としてプロフェッショナルに委ねてきたと言える。官僚機構という「プロフェッショナル」の統制と規制のもと、企業戦士という名の「プロフェッショナル」が経済活動に邁進し、政治も政治家という「プロフェッショナル」が様々な利害を秘密裏に調整していった。また、社会においても「アマチュア」である市民は行政に対して文句を言うばかりで、結局は「お上意識」のもと、行政機構という「プロフェッショナル」に政策を任せていたのであった。こうしたシステムが、戦後の奇跡とも言われた高度経済成長に貢献したということは、大いに評価して構わない。

  だが、昨今の状況を見れば、これまでシステムを支えてきたプロフェッショナルが信用できなくなっているのは明らかである。最近の大蔵省接待疑惑は言うに及ばず、官官接待や政治家への利益供与など、政治家・官僚・企業の不祥事は後をたたない。こうしたことが起こるのは、既存のシステムの担い手が有する「権力」や「既得権益」を利用しようという目論見があるためと思われるが、「持たざる者」からすれば明らかに不公平である。そして、こうしたことが度重なれば、政治不信や社会への無関心が増幅されるのも止むを得ないのかもしれない。今こそスクラップ&ビルドが必要なのだ。

  このように、既存のシステムは制度疲労をきたしており、先行きの不透明感はますます強くなっている。しかし、プロフェッショナルたちが何とか取り繕ってきた「システム」も、ここに来て明らかに限界を露呈してきている。それでは、どのような対処法があるのだろうか。

3.暗闇ノムコウ

  物事の対処にあたっては、基本的に「対処療法」と「根治療法(抜本策)」の2つがある。これまでは、何か問題が発生しても、「引責辞任」や「綱紀粛正」など、対処療法で済ませてきたが、それではどうにもならなくなってきたのである。そのため、根治療法の必要性が次第に認められるようになり、政治課題として規制緩和・行政改革・地方分権などが日の目を見るようになっている(ところが、これらでさえ官僚等の抵抗にあって骨抜きにされようとしている)。

  しかし、ここでの文脈からすれば、上記の3つにしても、結局はプロとプロの間の権限委譲に過ぎず、アマチュアは蚊帳の外である。しかしながら、90年代に入ってからは地域でのボランティア活動なども次第に活発になってきている。これには、不景気による労働時間の短縮により自由な時間が増えたことと、物質的な豊かさをある程度達成した中で、精神的な豊かさを求める動きが出ているためと思われる(詳しくは私の卒論参照)が、中には日野市の市民版マスタープラン作りのように、アマチュアの立場から政策提言を行なうグループまで現われている。その意味では、プロとプロのコラボレーションだけでなく、アマとプロのコラボレーションも大いに注目されて良い。

  例えば、企業の商品開発などでは、顧客のニーズを知るために、顧客のモニター制度を設けたり、顧客から随時意見を求めるといったことが既に行なわれている。また、インターネットの世界などは、アマチュアによる自由な情報発信を可能ならしめており、行政の立ち遅れとは好対象をなしている。このエッセイなども、数人の「マニア」に愛読されているのであるが、既存のチャネルでは、こうしたことはまず不可能であろう。

  要するに、現状を打破するには、既存のシステムに組み込まれたプロフェッショナルだけでは期待できないので、自由な発想ができ、その発信可能性も多いに膨らんできているアマチュアにも期待することにして、プロフェッショナルはアマチュアの支援・コーディネートに重点を置くべきだ、と言いたいのである。

  だが、海のものとも山のものともわからず、(原理的には)責任を取る必要のないアマチュアに期待するのは、少々無謀かもしれない。現に、行政における市民参加などは全体の1%にも満たないところが多いのだ。しかしながら、市民による自発的なまちづくり活動は最近になって急増しており、数え上げたらきりがないほどである。ゆくゆくは、これらの事例をまとめて『アマチュアリズムの時代』などと題して、新書などで発表できればと(密かに)企んでいるのだが、本論はそのささやかな第一歩かもしれない。

  それはともかく、現状では「一寸先は闇」だが、不景気の時こそ技術革新が進むように、暗闇の中でも新しい動きは確実に芽生えている。それが「アマチュアリズムの時代」への息吹だと信じて疑わない(?)今日この頃だが、その真偽は未来のみが教えてくれる…

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