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五輪館
毒語館乱世を斬る!

[1997.2]

乱世を斬る!

ストーカー・匿名性の光と影

1.流行語としてのストーカー

  1996年後半あたりから、「ストーカー」という言葉が大流行している。流行に敏感なテレビ界は、さっそく97年第1クール(1~3月)で2つもドラマのタイトルとして使用しているし、雑誌等でも「ストーカー対策」と銘打った特集記事が多く組まれている。また、1996年暮れに発売された『imidas '97』でさえも、以下のような説明を掲載している(ちなみに、『知恵蔵』と『現代用語の基礎知識』には、この言葉の普及時期が遅かったためか、説明が載っていないようだ)。

  忍び寄る、後をつけるという意味のストーク(stalk)から、しつこくつきまとってくる人。つきまとう、といっても尋常なレベルではなく、待ち伏せ、尾行する、夜昼かまわず電話をする、手紙を送り付けるなど、自分が関心を抱いた相手を一方的、病的執拗さで追いかけ回す。アメリカでは殺人にまで至るケースもあり問題となっているが、最近日本でも、ストーカーの被害にあう女性が増えてきているという。

  この言葉がこれだけ急速に定着したのは、おそらく多くの人がこのような恐怖体験をしながらも、これまで適当な表現がなかったからに相違あるまい。あいにく、私は追いかけられるほど魅力的ではないし、自転車での行動が多いので、この恐怖を実際に体験したことはない。むしろ、夜道でたまたま知らない女性が前を歩いていて、次第に近づいてしまったため、何か気まずくなって遠回りしていくこともあるぐらいだ。ただ、私は歩く時に気配を消しているので、それが怖いという場合もあるかもしれない。

  それはともかく、最近になってこうした現象が増えていることは確かなようだ。では、その理由はいったい何なのだろうか。

2.匿名希望の人たちがあふれ…

  まず、こうした行動を起こしうる条件を考えてみよう。当然のことながら、ストーカーは、相手やその周りの人たちに正体がばれてしまってはいけない(正確には、本人はばれても構わないかもしれないが、その場合は警察に捕まる危険性が高くなる)ので、みんながみんな顔見知りのような共同体ではできない。この場合は、例えストーキングしようとしても、すぐに噂が広まってしまい、「村八分」にされるのがオチである。しかし、逆に言えば都会のように、例え近くにいても相手を特定できない環境であれば、実現可能というわけだ。

  実際、某宗教団体の指名手配犯は、都会に潜伏している時は見つからなかったが、離れ小島に行った途端、あっけなく捕まってしまった。また、私は現在一人暮らしをしているが、正直言って「隣の人は何する人ぞ」という状況で、物音などは聞こえても、その人に関する情報は全くと言っていいほど知らない有様である。

  このように、「匿名性」がある程度保障された空間において、ストーカーは真価を発揮する。相手を追い回そうが何しようが、やり方さえ誤らなければ捕まる心配はまずないからだ。日本の各地において、都市化がますます進んでいることを考えると、これから先もこうした行動は増えていくのかもしれない。そして、ストーカーの行動も次第にエスカレートしていくであろう。それだけに、相手に拒否された場合には、殺人をも犯しかねないのである…

3.パワーの行き着く先

  ところで、こうした「匿名性」で成り立っているのが、インターネットに代表される電子ネットワークの世界だ。ここには現実社会のしがらみに囚われない世界が広がっており、自己表現の自由も保障されている。そのため、ストーカーではないにしても、思いも寄らぬところに執拗な思いを見て取れる。

  例えば、私の周りには青木裕子や大石恵のファンがいて、関連したマニアのホームページを見て楽しんでいるが、その中身の充実ぶりたるや、「すごい」としか言いようがない。コメントを書いたりチャットをしたりというのはまだかわいい方で、掲載された雑誌・出演したテレビ等を逐一チェックしているものもあれば、写真を数多く載せるなど、著作権の問題を心配してしまうほどの、凝りに凝ったものが意外に多いのである。

  しかし私としては、ストーカーにしてもマニアにしても、こうした(私には真似のできない)驚異的な「パワー」をもう少し違うところに向けられないものか、と思えてならない。

  おそらく、それなりに多くの人は、現状の生活にある程度は満足しつつも、「何か物足りない」という焦燥感を抱いており、その思いを発散する場を求めているに違いない。だからこそ、ストーキングという形にせよ、自分の思いを伝えるということにそれだけ一生懸命になれるのだろう。また、ボランティア活動が脚光を浴び、参加者が増えているのも、自己実現の欲求が強まっていることに起因すると言っても過言ではない。

  だが、現実の社会で生きていかなければならない以上、相手の思いを尊重することもまた重要である。相手の思いを踏みにじってまで自分の思いを実現するのでは、望ましい関係づくりなど期待できないのだ。本来、人は無意識のうちに「他人に見られている」と考えて無謀な行動を抑制していたはずなのだが、「匿名性」の中で、その意識も希薄になってしまったのであろう。だから、せっかくの「パワー」は、自分だけのために盲目的に浪費するのではなく、他者との関係の中で有効利用したいものである。

4.ROMに物申す!

  ところが逆に、「匿名性」によって、自分の関心のないことには反応しなくなるという側面もある。これは、政治に対する都市部の関心の低さに現われているし、コンピュータの世界ではROM(Read Only Member)の多さに顕著に出ている。後者については、私も会議室の運営をしたりメーリングリストで意見交換をする時など、参ったというか、正直腹がたつことすらある。確かに、「匿名性」によって従来の「しがらみ」からは相当程度抜け出し、自分の好きなように振る舞えるようになったことは評価すべきであろうが、関心がないからといって、必要なことに反応しないのが良いとは言えない。

  このように見ると、どうやら、これまでは「匿名性」により獲得した自由を履き違えていたようである。何でも好き勝手にすることばかりが自由ではない。自由には責任が伴うものであり、自分の属する社会の関係性の中で、たとえ関心がなくても、必要なことであれば何らかの反応を示すべきなのだ。その意味では、これからは「匿名性」の中に「公共性」をいかに組み込んでいくかが課題となろう。

  しかし、これには正直言って妙案はない…これが簡単に解決できるものなら、地球環境問題などもとっくに解決できているのかもしれない(ペナルティを課すという手もあるが、これでは消極的な対応策に過ぎない)。結局のところ一人一人の意識改革を待つ以外しょうがないのだが、それには膨大な時間と資源が浪費されるであろう。別にここで啓蒙するつもりはないが、このエッセイを読んで下さった人は、今一度自分の行動を考え直してもらいたいものである(もちろん、私自身も)。

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