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五輪館
毒語館独白の世界

[1998.12]

独白の世界

天の邪鬼

1.vs ネットワーカー

  とある日のこと、仕事の調べ物でネットサーフィンをしていたら、偶然にもこの「毒語館」について批評しているページを発見した。曰く「社会の根幹を支えている、マジメ・インテリ系、大学院~就職のかたのエッセイ。言ってることはまともだけれど、切り口がつまらないのはこういうタイプにありがちかな?」とのこと。これは「ReadMe! JAPAN」という読み物専用リンク集&ランキングページで紹介されたサイトを、個人的趣向で位置づけたものだそうで、わざわざ「あまり過剰に喜んだりがっかりしたりしないように」とまで断っている。全くもってご苦労なことである。

  こうした試みに対しては、本来なら取り上げてもらっただけでも感謝すべきであろうが、今回の文言にはどうにも引っかかる言葉があった。それは、別に「切り口がつまらない」というところではない。自分の至らなさは重々承知しているつもりだし、「面白い」「つまらない」は個々人の主観に関わるから、万人に面白いものを提供するのは土台無理だし、目指したところで結果的には陳腐なものになってしまうだろう。だいいち、とても全部読んだとは思えないから、こうした評価も十分ありだとは思う。

  むしろ問題なのは、いきなり「社会の根幹を支えている、マジメ・インテリ系」と切り出しているところである。これはおそらく大学院出という「高学歴」から短絡的に思い付いたフレーズだろうが、私自身社会の根幹を支えているつもりは毛頭ないし(むしろ崩しているような気さえする)、大学院を出てどれだけの人が真に社会を支えているのかも大いに疑問である(企業社会への貢献ということであれば、むしろ変な知識を身につけていない学部卒・高卒の方が貢献度は大きいように思う)。だいたい本当の「マジメ・インテリ系」なら、こんな危険極まりない(?)エッセイを書き連ねたりはしないだろう。そんなこともわからずに、ステレオタイプに物を言うな! …という思いが湧き出て、思わず長らく書き記した次第である。

  このように、私は幼少の頃より、(あからさまに怒ることがない分)人の言うことに全て従順に従うというよりも、くだらないことにケチをつけたり、何だかんだ言って相手の意にそぐわないことをする「ひねくれ者」「天の邪鬼(あまのじゃく)」であった(例えば、某大陸ヒッチハイクのゴールシーンも、普通なら感動して涙が止まらないのかもしれないが、私は「こんな都合良い時間にゴールするなんておかしい。ヤラセだ」と穿った見方をしてしまう)。これには、ささやかな皮肉から、自分のプライドをかけたものまで幅広いが、特に以下のような人たちが現れると、対決色をむき出しにしてしまうのである。

2.vs ジコチューな人々

  まずは、自分中心に世界が回ってると信じて疑わないノー天気な人たちだ。この手の人々は、自分が思っていることは他人も思っているのだ、という幻想を信じ続けているらしい。例えば、典型的なのは、「俺の酒が飲めないのかぁ!?」と言ってくる始末の悪い酔っ払いである。お酒には好みがあり、ものすごく好きで飲める人もいれば全く飲めない人もいるのに(それもわかっているはずなのに)、しかもお酒はあくまで店で買った、ないし店で出てきたものなのに、何を血迷ったのか、「自分の酒」と称して強要するのである。さらに最悪なのは、ビンを傾けて「あ~、腕が重いなぁ~」とかなんとか言って、下の者に強制する輩である。こういう時でないと先輩面できないのかと思うと逆に悲しくなるが、とにかく自分の思うように事が進まないと気が済まないらしい。

  こうした人間に対しては、私は進んで杯を空けたりはしない。はじめは適当にはぐらかしておき、どうにもしつこい時は、1回受けるだけ受けておいて、後はほとんど飲まずに時間が過ぎるのを待っていたりする。それでも付きまとってくる場合は、トイレに行ったフリをするとか、いっそ「飲みたい人が飲めばそれでいいじゃないですか」と素っ気無く言ってあげたりする。お酒以外の席でもそうだ。基本は、やりたい人がやればいい。価値観の多様化が進んでいると言われる世の中なのだから、「十人十色」の言葉にならい、それぞれの意志を尊重すべきなのだ。

  しかしながら、それでもジコチュー族は滅亡しない。「一致団結」などという言葉を錦の御旗にして、集団行動を強制しようとするのだ。こんなご時世になっても、会社主催のパーティーなりスポーツ大会を復活させるところがあるぐらいだから、まだまだ根は深いようである。無論、私はたとえ「非国民」と呼ばれようと、こんな行事には極力参加しないし、自分が主催する側に立たされたとしても強制はしない。だから、逆に言えば、こうしたジコチュー族とは相容れないので、何だかんだ理由をつけて申し出を断るのである。

3.vs 固定観念に囚われた人々

  また、ジコチュー族でなくとも、ある伝統的な固定観念に囚われているのも困り者である。このわかりやすい例が、男女差別的な考え方である。

  最近では、「セクハラ」という概念が広まってきたせいか、男女が同席する場でおおっぴらにいかがわしい行為をする輩は影を潜めたが、男だけになると、ほとんど決まって下ネタに話が移行する。たいがい、お決まりの「好きな女性のタイプは?」「芸能人で言うと誰?」といったことから話が始まる。私自身はこういう話が大の苦手なので、すぐにでもその場を立ち去りたいのだが、なぜか「男なら下ネタが好きで当たり前」という態度を取られることがままある。

  こうなると、私は意地になって、仮に答えを持ち合わせていても「特にタイプはないです」「芸能人には興味ないです」と話に釘を刺すようなことを言うようにしている。そもそも「男なら」「女なら」と、はじめから決め付けてしまうのはおかしいではないか。本来、男でも下ネタが好きな人間もいれば嫌いな人間もおり、女性もしかりのはずなのに、その比率がどうこうで色分けされてしまってはかなわない。これが形を変えた(同性からの)セクハラであることに気づかないのだろうか。

  おまけに、男女同席の場であっても、「やはりお酌は女性がしなきゃ」とか「女性は25までが華だ」などと平気で申す下衆が後を絶たないのである。お酌なんてものは、基本的に飲んだ当人がすれば良いことであり、少なくともわざわざ女性がする必然性はない。また「華」はそれぞれの年代に応じてあるはずのもので、自分らしく生きていればそれなりの魅力というのはいつになってもあるものなのだ。それをある年齢以下で「足切り」しているということは、明らかに肌の質とかにしか価値を見出していないことの現れである。

  こういうことを聞くと、(大多数の)男ってなんて馬鹿なんだろう、と思わずにはいられないが、さらに嘆かわしいことには、女性の中にもこうした言動を甘んじて受け入れてしまっている人がいるのである。これでは、変わるべきものもなかなか変わらない。男女が同一だとまでいうつもりは毛頭ないが、少なくとももっと柔軟な考え方ができ、それが認められるようにならなければいけないのではないかと思う。

4.vs 他人任せの人々

  他方、自己責任・自己決定が叫ばれる時代に、何事も他人任せの人たちがいる。一部のことであれば、人間全ての意思決定をするのは大変だからと納得もできるのだが、全てとなると話は別だ。これでは、蝋人形やスタッフサービスのCMで固まってしまった女性スタッフと何ら変わりがないではないか。

  確かに、情報氾濫の時代に「自由からの逃走」をしたい気分もわからないではない(与えられたことだけやっていれば良いのだから、楽ではある)が、それでは人としての存在価値がほとんどなくなってしまう。例えば「プロジェクト」というものは、複数名が意見を出し合うことで新しいものを創出しようということで考え出されたはずだが、ここに他人任せの人が入ると、議論にはならず、単なる役割分担に終始することになる。これは一見効率的なようであり、事実もめにもめるよりはマシな場合もあるが、概してつまらないものしかできなかったりする。それでも良いのだ、と言われればそれまでだが、コミットしようとしない態度には、私の「天の邪鬼度」もアップするというものだ。

  こうした場合、私はたいがい、まず主要な選択肢を用意しておいて、そこからどうすれば良いと思うか(あるいは、他に考えはあるか)と意見を尋ねることにしている。これでも意見が出てこない場合は、「後は任せた」などとして、ボールを向こうに預ける戦法に出る。こうすると、さすがの他人任せの人々も困惑するので、(どちらかと言えば負の)協力体制が出来上がるのである。

5.vs 自分

  このように、総じて「他人の意向を顧みない無責任な人々」に対しては、私自身かなり頑なな態度を取ることになる(逆に言えば、他人の意見を尊重する柔軟な考えの持ち主には、寛大な態度を取る)。これでは出世がおぼつかないのも明らかだが、出世自体興味がないので、そのあたりは個人的には問題ないのである。

  しかし、最も対決色を強めるのは、もしかしたら自分自身に対してなのかもしれない。以前書いたことだが、私自身の中には強烈なまでの(?)自己嫌悪感があり、それが絶えず自己否定につながっていくのである。だから、何かの間違いで他人から誉められるようなことがあると、自分自身の不甲斐なさを知っているだけに、気味が悪くて仕方がないほどなのだ。むろん、「自分で自分をけなす」ことはしょっちゅうあっても、「自分で自分を誉める」ということはまずありえない。この世でもっとも醜いのは自分である、という信念は今でも変わらないのである(これ自体が「天の邪鬼」なのかもしれないが)。

  なんだか暗い気持ちになってしまったかもしれないが、それでもこうした考えがもたらす光明もある。自分を最低の人間と思っている以上、自分の受けた苦しみ・悲しみ・屈辱を他人に味あわせようとは思わなくなるし、相手に対し謙虚な態度で臨むことになる(スピードスケートの清水選手ではないが、「我以外皆師」の気持ちだ)し、何より挫折に強くなる。また、名君と言われた徳川慶喜も、大河ドラマを見る限り「天の邪鬼」であったようだから、捨てた者ではないのかもしれない。これからも、奢ることなく、自分の無様な性格と共生できるよう努力する次第である。

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