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五輪館
毒語館独白の世界

[1997.11]

独白の世界

自己嫌悪

  私は、自分のことが嫌いで仕方がない。容姿は言うに及ばず、心の中もである。何もそこまで、と思う人も稀にいるかもしれないが、自分のことは自分自身が一番良くわかっているだけに、同情はむなしく響くだけである。それに、私は人に好かれるような人間ではない。いや、むしろ嫌われる人間だ。これは20数年間生きてきた正直な感想だが、その原因が何なのか、以下で検証することにしよう。

1.チョガンブ

  まず何と言っても、顔が不細工である。コギャル語(死語)では、超顔面不細工な人のことを「チョガンブ」と言うらしいが、まさにその典型なのだ。

  私は電車の窓際に立つことが多いのだが、きっと今をときめくイケメンとは違って、顔が醜いなどと思われていることだろう。だから、とてもナルシストにはなれないし、もちろんなる気もない。当然、自分が写るような写真は極力撮らないように、また撮られないようにしている。旅の写真が全て風景写真なのも、ホームページの顔写真がなかなか更新されないのもそのためだ(不覚にも、先日NHK教育の特番で数秒写ってしまったが、正面からアップで写らなかったのは不幸中の幸いである)。

  こんな有様だから、葬式の時にちゃんと写真を用意できるのかと不安になる時もあるが、一般の人の気分を害さないためには、なるべく写らないようにしなければいけないし、例え間違って記録に残ってしまっても、倫理的にモザイクをかける等の処置を施さねばまずいだろう。

  おまけに、女性もうらやむような(?)色白であるため、不細工度はさらに誇張されてしまう。高校時代水泳部で夏に泳いでいた時も、みんなが小麦色に焼ける頃はまだ日焼けせず、秋口に皆が黒くなる頃になって、ようやく良い感じの小麦色に焼けるという具合であった。そのため、例え普通の状態であっても顔色が悪く見えるらしく、もうすぐ死ぬんじゃないかと、一部の人には心配をかけているようである(実際には幼稚園から高校まで皆勤だから、体力はそれなりにあるはず)。

  こんな調子だから、チャパツガングロ(茶髪で顔が色黒の意)がもてはやされる昨今の風潮の中では、異性からも同性からも好かれるはずはなく、せめてもの利点は、お昼の某番組で以前やっていたような「色白コンテスト」に出られるぐらいであろう。その意味では、某「極盛」カップラーメンCMで、色白のため女性に相手にされなかったので、焼そばを食べて色黒になろうとした赤ん坊の気持ちもわからないではないのだ。

  ただ、これだけ書いても、そんなことはない!と否定する特殊なフェチ人間が存在するかもしれない(実際に見かけたことはないが)。私としては、それはそれで別段責める気はないが、自分自身がこうしたコンプレックスを抱くようになった最大の原因は、なんと幼少期にあると思っている。どういうわけか、物心ついてまもなくぐらいまで、近所のおばさんなどに「かわいい」「女の子みたい」とか言われていたのだ。

  小さい子を「かわいい」というのは当然なのかもしれないが、これらは幼い私の心をひどく傷つけた、と言っても過言ではない。今でこそSHAZNAのような振る舞いも許容されるようになっているが、当時の私にはあまりに酷であった(化粧はしていない、念のため。今では基本的に「かわいかった」と過去形になっている)。だから私にとって、これらの言葉はタブーであり、このコンプレックスは、死ぬまでついて回ることであろう。

2.シャイマン

  もっとも、容姿の悪さだけならば、生まれつきだから仕方ないだろう。が、実は心の中はもっと悲惨な状態である。これは寂しいとかいう問題ではなくて(むしろ1人でいる方が快適である)、心の中も不細工、すなわち人として備えるべき器量を欠いているということだ。

  まず、私はトークを苦手としている(文章を書くのは比較的好きだが)。これはアドリブがあまり効かない等の理由が大きいのだが、特に人数が多くなるほど沈黙化する傾向にある。というのも、人数が多いほどしゃべる人がいる(確率が高い)し、こんなつまらない自分がしゃべるのに時間を割くのはもったいない、という思いが頭をもたげてくるからだ。そのため、我は結構強いのだが、それを通そうという気概に欠けている。

  おまけに、目を見て話す、というコミュニケーションの基本ができていない。これは自分の不細工な顔を見られたくない以上に、相手を見つめるのが恥ずかしくてしょうがないのだ。特に、大勢の人の注目が集まるほど恥ずかしくなる。だから、電車などでたまたま目と目が合ってしまったりすると、すぐに逸らし、見つめていたわけではない、と心の中でつぶやいていたりする。そのため、しゃべる時はなるべく相手の目を見ないように話しており、これで自分の冷静さはある程度保てるのだが、これでは相手に意思を伝えることは難しいのである(そのためか、何を考えているか掴みづらいらしい)。

  さらに、自分自身のことについて語るのはひどく苦手、と言うか、嫌である。このように文章にしてしまう分には抵抗ないのだが(と言っても、後で「読んだよ」などと言われると赤面する)、自分から己のことを「語ろう」という気はさらさらない。特に相手から尋ねられる場合には、自分のプライバシーを侵害されているような気がして、答えに窮してしまう。もちろん、自分のプライベートな話が嫌な分、ワイドショー等他人のプライバシーを踏みにじるものも好まないが、これでは噂好きの人とは仲良くなれないのは明らかである。

  せめてもの救いは、長いスピーチや自慢話をする可能性が皆無に等しいことであろうが、逆にネタを提供する姿勢に欠けているので、コンパ等には向いていない人材である。そのせいもあって(お酒もあまり好きではないので)、今どき珍しく合コンなどしたこともないし、恥ずかしくてやりたいとも思わない。

  そう言えば、少し前のあるドラマで、結婚できない男たちに向けて「シャイマン克服セミナー」をしようなどという企画があったが、結婚できるとは思えない(より正確には、どの道できない)私には、そんなセミナーがあっても猫に小判である。ただ、こうした行為がどれだけ公衆を不快な思いにさせているかと考えると、申し訳なくて誰にも足を向けて眠れない。昔ならとっくに村八分になっているところである。これも、自由社会が生み出した弊害なのであろう。

3.ひねくれ者

  加えて、性格もねじ曲がっている。これは既に幼稚園時代からのもので、その昔は「ひねくれ者」と家族に揶揄され、同僚からはイジメの格好のターゲットにされたものだが、今だに克服されたとは言えないのが現状である。

  第一に、自分の気持ちを素直に表現しない(できない?)ところがある。だいたい、相手の言い分に対して、皮肉な回答をしてしまうのだ。だから、まかり間違って感謝でもされようものなら、素直に応じればいいものを、「別に何もしていないよ」「そんなつもりは毛頭ないよ」などと、すぐさま相手を突き放すような言動を発してしまう。これらは、基本的に「愛情の裏返し」ならぬ「感情の裏返し」ないし「超婉曲表現」なのだが、私とのつきあいが短い人には、どうしても奇異に映るであろう。発する言葉自体少なくてこの有様なのだから、人が寄ってこないのも(我ながら)頷ける。昔から友人が少ないのも、こうしたことが大きな原因なのであろう(と言っても、むりやり増やそうとも思わないが)。

  また、人の気も察せず、平気で毒のある言葉を言ってしまったりする。基本的にはベタなダジャレ(親父系のギャグ)ではなくブラックジョークを好み、これが時々マニアにはたまらない苦笑を誘うこともあるようだが、時として災いを招くことにもなる。先日も、ジョークのつもりで、MLに某事件をメタファーとした内容を流し、顰蹙をかったばかりであるし、その前には発表の順番がアイウエオ順なのに軽くケチをつけ、トラブルメイカーになったりもした。また、状況によっては、お人好しとは違って、相手の要求をドライに拒否したりもする。要するに、デリカシーがないのだ。「あなたの場合 沈黙が長すぎるってだけで 悪気もない 害もない でもちょっとだけデリカシーがないんだわ♪」というフレーズが胸に突き刺さる(私の場合「ちょっとだけ」ではなく「かなり」だが)。

  こんなねじ曲がった人間だから、生きているだけで陰に陽に迷惑をかけていることであろう。その点では、自分より優れた父と弟に嫉妬して僻んでいた毛利隆元の気持ちも良くわかる(もっとも、私の場合は親兄弟に対してというよりも、自分自身に対してのものであるが)。ああいう人間が歴史上存在したのかと思うと多少救われなくもないが、隆元の場合は毒死以前に更正しているから、私より器量が大きいのは確かである。

4.哀しみを知る者は…

  それにしても、これだけ自分のことを責めれば、残された道はただ1つなのでは、もしかしたらこのエッセイが遺言なのでは、と早合点する向きもあるかもしれない。「お前はもう、死んでいる」と。

  しかし、あの暴力漫画と思われがちな『北斗の拳』も、その真髄は「哀しみを知る者は強くなれる」という(ような)ことにあった。その意味では、こんな私にもまだ救いは(わずかながら)あるのかもしれない。また、四国統一を果たした戦国時代の名将・長宗我部元親も、若年のころは「色白く、柔和で、寡黙」だったため、家臣から「姫若子」とあだ名されていたというから、人生どう転ぶかわかったものではない。「少しくらい哀しいほうが 人にやさしくなれる♪」なんて歌詞もあるので、絶望するには早過ぎるであろう。それに、日本の不況のように、今が最悪の状態だと思えば、何だか勇気も湧いてくる(ような気がする)。

  最後は自己慰めになってしまった観もあるが、これだけ自分の内面のダークサイドを描けば、もはや恐れるものは何もない(はず?)。果たしてこんな私に良い面があるのかはわからないが、これからは、変に媚びずに生きていければ幸いである。

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