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五輪館
毒語館独白の世界

[1997.3]

独白の世界

一橋と慶應

1.嫉妬か尊敬か

  私は、学部を一橋大学、大学院を慶應義塾大学で過ごすという、一見「変わった」経歴を持っている。通常、大学院への進学は在籍していた大学内で行なわれるものだが、私はあえてその道を選ばなかった(理由は後述)。その意味では、かなり異質な人間であり、愛校心の強い者からは「裏切り者」とか「浮気者」との誹りを受けても仕方がないであろう。

  その代わり、一つの学校に止まっていては経験できない貴重な体験もしている。中でも面白いと思うのは、それぞれの大学に対する先入観(偏見?)だ。

  一橋から見ると、慶應には何やら洗練されたイメージがあるらしく、「安藤は慶應Boyになるのか…」と感想を洩らす人がいるかと思えば、「慶應ってもてますか?」なんて聞いてくる輩もいる(もちろん、私の不細工度とSFCの田舎度を考えれば、そんなはずはないのだが)。他方、慶應側から見ると、一橋には硬派なイメージがあるようで、「男子大みたいで憧れた」と言う人がいた(確かに女性は少ないが)。また、特にSFCでは受験教科が少なくて済むためか、「国立大に入るなんてすごい」とのたまう人もいる。

  これらは私に気を遣っての発言かもしれないので、単純に考えるわけにはいかないが、嫉妬か尊敬なのか、いわゆる「ないものねだり」というやつで、互いに一目置いているようである。では、その実態やいかに!?

2.噂の真相

  まずキャンパスの雰囲気は、両校とも悪くないとは思うが、私は一橋の方が気に入っている。あの中世ロマネスク様式の校舎に武蔵野の面影残る豊かな緑、学生数に比較して広い敷地面積、国立市民憩いの場としての機能など、申し分ない。特に時計台のある図書館の閲覧室(2階)は、教会のような神秘的な場所で学生が多数勉強し、アカデミックな雰囲気を醸し出しており、「これぞ大学!」と思ったものである。その点、SFCは有名な建築家のデザインであり、洗練された印象はあるが、私から見ると、逆にあまりにも洗練されすぎていて味気ないし、緑も多いかもしれないがそれを感じさせない造りになっている。

  キャンパス内の学習環境は、明らかにSFCの方が優れている。蔵書が藤沢市図書館より少ない、あまりにも開放的な環境のため一人で勉強するスペースがあまりない点を除けば、千台を超すワークステーションやパソコン、24時間使用可能なキャンパス・ネットワーク、冷暖房付で各種プレゼンテーションも可能な教室設計、グループワーク・コラボレーションの重視、学問分野・教授間の風通しの良い雰囲気づくりなどなど、世界的にも恵まれた環境を享受している(その分学費も高いが)。他方一橋は、豊富な教授陣、図書館機能等では負けていないが、教室はビデオを見るのがやっとで冷房などないし、コンピュータ・ネットワークの整備もかなり遅れるなど、劣悪な環境となっている。

  キャンパス内の生活環境も、SFCの方が整備されている。一橋では生協が4時半、学食(2つ)が3時半までしかやっていないなど、学生に「勉強するな」と言わんばかりの状況であったのに対し、SFCでは生協が5時、学食(4つ)が8時半まで営業している。生協の品揃え・学食の味という点では両者とも相当低いレベルで争っており、甲乙つけ難いが、24時間キャンパスを標傍しているだけあって、全体としてはSFCに軍配が上がるのは確かである。

  逆にキャンパス外の生活環境は、一橋の方が断然恵まれている。国立は文教都市であり、また中央線沿線随一のおしゃれな街であるので、キャンパスからちょっと出るだけで様々なしゃれた店に繰り出すことができる。また春は大学通りと桜通りを貫く桜並木を堪能でき、クリスマスにはツリーのライトアップも見ることができ、たまにドラマの撮影も行なわれていたりする。それに引き替え、SFCの周りはろくに店もなく、休み中は食事の補給に苦労する。近くの(?)湘南台は地下鉄の乗り入れなどで将来発展するのは間違いないが、現時点では国立にかなうわけがない。

  最後にキャンパス・ライフについては、どちらも一長一短である。一橋ではゼミとサークルが学生生活の中心を占めているが、単位取得が比較的楽であるので、各人の行動次第で有意義な生活を送れるかどうかが決まると言っても過言ではない。一方SFCはグループワーク等で授業が忙しく、単位取得のためにはかなり勉強する必要がある。そのためか、サークル活動はあまり活発ではなく、交友関係も授業で培われることが多いようであるが、学外の組織と絡むプロジェクトも多く見られるなど、普通にはない多彩な活動が繰り広げられている。

  このように見ると、どちらも2勝2敗1分であるので、この勝負はドローということにしておこう。

3.肩書きと中身

  しかし私にとっては、両校とも、いわゆる「エリート」大学であるため、世間的にそうした色眼鏡で見られてしまうことが問題だ。

  確かに、どちらもそれなりに有名な学校で、合格するのは難しいかもしれない。また就職状況等が比較的恵まれていることも否定するつもりはない。しかし、少なくとも私は、そうしたことを目的に入学したのではない。

  一橋には、国立大学で唯一存在する社会学部に大きく惹かれ、また国立には小さい頃より縁りがあったので、漠然とした憧れがあったのは事実である。だが大学院に関しては、私の専門を生かす部門がないに等しく、しかも貧困な学習環境、閉鎖的なイメージから興味をそそられなかったので、学内進学をするつもりは毛頭なかった。その点、SFCの大学院は、創立してまだ数年しか経っていなかった(私たちの代で3期目)が、恵まれた学習環境に開放的な雰囲気、それに私の研究関心に合った分野が研究されていたので、こちらへの進学に賭けてみたのだ(その実態については次回で!)。

  すなわち、繰り返しになるが、私は有名大学出身という「肩書き」「ブランド」が欲しくて進学したのではなく、あくまでその時々の自分にとって最適の選択をしてきた(つもり)に過ぎない。だから、これまでの進路については全く後悔していない。

  よく、有名な親の子供が世間的に成功したりすると、マスコミが「親の七光り」などとはやし立てるが、これも当人にとっては迷惑なことであろう。確かに、親のDNAがそうさせたとする説明は可能だし、普通の人に比べれば出世する条件は整っているのかもしれない。だが、大概の場合、当人は親のために職業選択をしているのではなく、自分のために、つまり自分が「やりたい」から選択したに過ぎないはずだ。なのに、なぜか周りは外部要因ばかりに注目して説明したがるのである(逆に失敗した場合は「立派な親」と比較され、これほどかわいそうなこともない)。これでは、世間が親というフィルターを通して見ており、当人の自立を妨げていることにもなりかねない。

  結局、世間は何事につけ「もっともらしい」説明を求めたがるものであるが、これでは物事の本質を捉えられない可能性が高い。私も、現在大学院に行っていると言うとすぐさま「すごいですね」といった反応が返ってくるが、これには正直辟易する。大学院に行くこと自体はそれほど「すごい」ことではなく、問題はそこで実際に何をやっているかのはずだが、その中身にはお構いなしなのだ。

  今後、社会の急激な変化の中で、肩書きなどはますます怪しいものになるに違いないが、そのためにも、こうした中身を重視する姿勢を身につけておきたいものである。私自身、これから就職活動を本格化させなければならないが、その際にも、肩書き(大企業か中小か)に惑わされるのではなく、中身(事業内容等)を重視していく所存である。その結果報告については、また改めて述べることにしよう。

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